吉本くんがビリビリに破いちゃったのを、みんなで直しました。

僕がなぜこの一行を選んだかというと、自分のクラスでこのようなことが起きたら、どうなるかということを、考えさせられたからです。僕のクラスでもし起きたらみんなで助けあって、やられた人のことを心配し、破いた人のことを指摘すると思います。もしできなくても、できるようにしていきたいと思います。

だから、夜明けに、小さな変わった声で起こされたときには、どんなに驚いたことだろう、聞こえてきたのは、こんな声……「おねがい……ヒツジの絵を描いて!」

『星の王子さま』

サン=テグジュペリ/著、河野万里子/訳

11ページ

サハラ砂漠に飛行機が不時着するまでひとりぼっちだった「ぼく」。ぼくだったら、ひとりぼっちはさみしくて、話す人がいないなんて考えられません。だから、「ぼく」が王子さまの声を開いたことにぼくもびっくりしましたが、うれしくもありました。

そのうち追いつけばええねん。人生は最後に笑たもんの勝ちや。

この一行は、ポジティブで、うさぎとかめです。 人生は、いろいろありますが、ぼくはまだ十一才です。まだ追いついていないこともたくさんあります。この言葉は、病で発達が遅れた主人公・直之に軽く言った言葉ですが、今のような状態のぼくも、とてもみりょくを感じました。こんなことを軽く言えるのも、すごくかっこよく思えました。この言葉をきっかけに、これからもがんばっていこうと思いました。

こう判断する以外、なさそうだぞ。この星の連中は神経がねじれているにちがいない。そのために感情と表現とが、逆になっているのだろう。

『ようこそ地球さん』の「友好使節」を読んで、確かにぼくたちは、知らない物には、好意ではなく敵意と軽べつだけを持っているな、と思いました。でも、その考えは、まちがっていると思います。知らない相手を優しくむかえ入れて、皆平等に接すると、交友関係が生まれ仲良くなれると思います。実際、人間は、「感情と表現とが、逆になっている」わけではありません。だから、作者はこの「友好使節」を通して、思っていることと反対のことは言わず、心の内をはっきりと相手に伝えましょう、と伝えたかったのかな、と思いました。僕も、知らない物にも好意を持ち、心の内を相手にはっきりと伝えなければと、改めて思いました。

老いも若きも、男も女も、あらゆる階級、あらゆる職業の人々が、「一度は富士登山を」と志す

富士山は二〇一三年六月二十二日に世界文化遺産に登録されました。以前、世界自然遺産を目指していたそうですが、ゴミが多い等の問題があり断念したそうです。今回世界文化遺産に登録されて僕は心配しています。なぜなら、僕が選んだ一行のように、老いも若きも、男も女も、あらゆる階級、あらゆる職業、そしてこれからはあらゆる国の人々が「一度は富士登山を」と志すと思われるからです。たくさんの人々が登ることによりさらにゴミが増え、富士山の自然環境が破壊されてしまうことを心配しています。世界遺産は六年ごとに保全状況の審査があり、保全状況が良くないと世界遺産の登録が取り消しになることがあるからです。これから富士山を志す全ての人々がきちんとマナーを守って富士山を大切にしていくことが課題だと思います。僕も富士山にいつか登って、富士山の魅力をこの目で見てみたいです。その時はきちんとマナーを守って登ります。

ぼくが、この一行を選んだ理由は、昔ペットが死んだ時、幼稚園の友達が「盛り上がれば元気になる」と言うので盛り上がっても、よけいに悲しくなった経験があるからです。そして悲しいままぐんぐんぐんぐん落ちこんで一週間後に少し元気になれたからです。他にも大事にしていた本をぬらされてぐんぐんしずんでいったらすぐ楽になったからです。

それでわれらは、この島で、りっぱに、ほがらかに、ただの一日もいやな思いをしないで、おたがいの生活が、少しでもよくなるように、心がけてくらすことができたのだ。

『無人島に生きる十六人』

須川邦彦/著

243ページ

なぜこの一行を選んだかというと「おたがいの生活が進歩し」という所は、いつも人にたよったりふつうの生活をしていたけれど、無人島ではたよれる人がいないので、みんなで助け合いながら生きていかないといけません。無人島で協力することを教わったんだなと思う一行だったからです。

途中止めしたら、絶対正解にはたどり着けないんだよ。

ぼくが、なぜこの言葉にしたかというと、その言葉通りに途中で止めてしまえば、絶体に正解にはたどりつかないからです。ぼくは、バスケットボールの3ポイントからのオーバーシュートの練習をしていて、30本の内1本しか決まらなかったことがあります。途中であきらめようとしたけれども、今やめたら次は入るかもしれない、それなのにやめてしまってはなにも得られないと思い、練習をつづけたけいけんがあるからです。

手がなくても、目がなくても、口がきけなくても、人間として大事な心さえ立派であれば、それが立派な人間といえるのじゃないですか。

この言葉は、重い病気を持つふじ子に対しての信夫の言葉だ。信夫は、ふじ子のいる札幌から旭川へ行くが、何とかふじ子の病気をなおして、他のひととは結婚せずにふじ子をお嫁さんにしようとした。だが、ふじ子が、「でも。」と言いながら、病気はなおらないと自信を無くしていたので、信夫が少し強く言ってあげたのがこの言葉で、とても心に残った。ぼくが、これから大人になって困難にぶち当たった時には、信夫のようにしっかりした心や信念を持って進んで行きたいと思う。

生きている人は、みんな、自分の力で歩いていかないといけない―。

この一行は、交通事故で亡くなった永瀬文ちゃんが教えてくれたことです。自分の力で一歩ふみ出すことのできたユウキをみて、自分の力で一歩ふみ出すことはとても大事なことなんだと思ったから、この一行を選びました。ぼくもユウキみたいに自分の力で歩いていきたいと思いました。そして、この一行は何回も出てきて、このお話の大事なキーワードにもなっているので選びました。

一人一人の力は弱い。ちえもたりない。しかし一人一人のま心としんけんな努力とを16集めた一かたまりはほんとに強い、はかり知れない底力のあるものだった。

『無人島に生きる十六人』

須川邦彦/著

242-243ページ

ぼくがこの一行を選んだ理由は二つある。一つ目は、この一六人の主人公たちの大半は練習生なのに、この一六人の力を一つにした力は無人島で一年も生きていけるほど強い。そういう事をこの一行は伝えたかったのだと思ったからだ。そしてもう一つの理由は、流れ着いた島は木もない何もない島だったということ。もう一つの島を見つけ、たき木などは見つかったものの最初の二、三日はとてもつらかったと思う。飲み物も塩からい水、食べ物は一かんを一六人で分けるというあり様だ。ぼくは、この本を読んで自給自足の本当の意味が分かりました。

運命なんて、結局のところ、何を選択するかってことだと思う。

この物語には、これから実際に起こる悲しい事件を夢で見てしまうという少女が登場する。少女の夢は必ず現実となってしまうのだが、一人の青年探偵が現れたことで、少しずつ現実が変化していく。運命だとあきらめていたことを、変えられる人がいたのだ。運命とは何だろう。「人は、運命を避けようとしてとった道で、しばしば運命に出会う。」というフランスの詩人の言葉が最後にのっていた。この言葉の意味は、運命は変えられない、ということらしい。運命を変えようと思って別の道を選んだとしても、それも運命なのだ、と。けれど、この言葉の奥には逆の意味があると思う。僕が選んだ一行のように、運命は何を選ぶかで決まるのではないだろうか。自分が何を選んで、どの道へ進むのかで、これからの運命は変わるのだと思う。つまり、運命を作るのは自分なのだ。主人公の青年のように、僕も正しい精神と強い意志で、自分の運命を決めていきたい。

俺たちを遭難させたのは、日本のサラリーマン社会だよ。

日本は、お金儲けやサラリーマン(労働者)の育成ばかり気にしているが、社長・会長の大半はサラリーマンの気持ちを考えたことがあるのかなと、この一行を読んで思いました。なぜなら、自己中心的ではいけないし、サラリーマンの一人一人が日本の社会を支えていると思うからです。

人生は最後に笑たもんの勝ちや。

ぼくが、この一行を選んだ理由は、最後の最後に、「楽しい」とか、「うれしい」というように思えるような事をしたいと思ったからです。今は、「苦しい」とか、「いやだ」など、つらい事があり、これからもふえていくかもしれません。それでも、最後の最後には笑えるようになりたい、笑えるように努力したいと思います。

知識はこの世で何より価値あるものだ。知識があってこそ偉人も善人も生まれる。

『トム・ソーヤーの冒険』

マーク・トウェイン/著、柴田元幸/訳

59-60ページ

僕はクイズ番組が大好きです。なぜクイズ番組が好きかと言うと、これから役立つ知識などをたくさん身に付けられるからです。知識があると人のためになることができると思います。知識をたくさんもっていると価値があり、知識をもっているからこそ、偉人や善人がいるのだと思います。僕がこの一行を選んだ理由は、僕の考えと本の作者(マーク・トウェイン)と似たような考えをもっていると思ったからです。

かれの目には細い月の光をうけて、星のようにちらっとつゆが光った。

『無人島に生きる十六人』

須川邦彦/著

126ページ

この話は、十六人が無人島で生活するという話で、どきどきわくわく読みました。なぜこの一行が心に残ったかというと、星のように、つゆが光ったという涙の表現の仕方がきれいだったからです。また、具合が悪いときでも気を配ってみんなを助けようとする姿に感動したからです。

あんたらのためにじゃなく、ディズニーランドのためにやることだ。

『ミッキーマウスの憂鬱』

松岡圭祐/著

229ページ

ぼくがこの一行を選んだ理由は、現代の日本社会の労働者に失われつつある思いを取り戻させてくれる一行だと感じたからです。失われつつある事とは、労働者のほとんどが上司の顔色をうかがい、目先の評価ばかりを気にしていて、企業が本来目的としている理念を忘れかけていることです。これからの日本企業が成長していく上で、その中で働く者の一人一人が強く意識をしていかなければならないという事を教えてくれていると僕は思い、この一行を選びました。

いい?自信を持つのよ。自分の生き方に先生やお父さんやお母さんがなにを言っても、迷ってはだめ。信じることをこわがらないで。あんたが自信を持ってさえいれば、誰が笑ったって構いやしないわ。分かった?

この本を読んでいて一番心に残ったのがこの文でした。中でも「迷ったらだめ」というのがよかったです。迷っていたら次に進めないということを伝えたいと感じたので、この一行が私の一行になりました。

こんどこそは、どうやら解決の鍵を握ったつもりだよ。

『シャーロック・ホームズの冒険』

コナン・ドイル/著、延原謙/訳

262ページ

ホームズも頭をひねったこの事件、解決までの展開がおもしろい。失踪したという男、ネヴィル・セントクレアは乞食に変装していた。ある日、妻に見られてはいけないアヘン窟にいる所を妻に見つかった。変装はばれなかったが、本人、ネヴィル・セントクレア氏を殺したと言われて警察につれていかれた。そこでホームズが推理をしていくと、セントクレアは変装中の乞食だということなどのなぞがわかり、事件は解決へ向かっていくという話だ。私は、どんな推理小説を読んでも、なかなか「解決への鍵」を握ることができない。だから、いつも解決への鍵を握ることができるホームズは、すごいと思う。

君が好きや。今すぐ一生とか約束できんけど、今は君が好きで君と付き合いたい。

私がこの一行を選んだ理由は、単純にこの言葉がわけもなく心に刺さり、「すごくかっこいい」と思ったからです。主人公が色んな思いをこめて言った言葉だからこそ、すごく心に刺さったのかもしれないと思います。

あんたは、もっともっと底の方で光っているものをもっている……。

このお話の主な登場人物は、自分に自信がない妹の実加と、非の打ち所がない優等生の姉・千津子です。交通事故で千津子が死んでしまいましたが、その数日後から実加は変わり、心が成長してゆきます。それは、死んだはずの千津子の声が頭の中に聞こえるようになったからでした。「あんたは、もっともっと底の方で光っているものを持っている……」。これは、千津子が死ぬ直前に実加に言った言葉です。私は千津子のこの言葉を実加は信じていたから、千津子の声が聞こえるようになったのだと思います。「今は見えていなくても、まだすごい可能性がある」。千津子の声が聞こえなくなる前に、実加は「お姉ちゃんなんかどこかへ行っちゃえ」と言い、それが実加の自立の言葉になりました。これからもずっと未来へと進もうとする勇気がわいて来ました。

死んだ人間と生きた人間を会わせる窓口、使者(つなぐ)。

わたしは、この部分を読んですこしこわくなりました。なぜなら、死んだ人間とは一生あえないはずだからです。使者(つなぐ)という人は、何者だと思いました。

死んでもいい、と思えるほどの何かを、いつかぼくはできるのだろうか。たとえやりとげることはできなくても、そんな何かを見つけたいと思った。そうでなくちゃ、なんのために生きてるんだ。

私たちの命は、この世に二つとない大切なものだ。しかし、生き物は案外簡単に死んでしまうのかもしれない。だれだっていつかは死んでしまう時がくる。そして、人間は死ぬことを知り、おそれている。それは、自分が何もやりとげられないことをおそれるのだ。だからこそ、死んでもいい、と思えるほどの人生の目標を見つけよう。その目標に向かって全力で取り組めばその一生はくいのないものになるにちがいない。そんなことを、この文は教えてくれる。

私がいなくなったら、きっとお母さんしばらく立ち直れないわ。あんたがしっかりしなきゃだめ、分かった?――あんたはね私なんかよりずっとずっと才能のある子なのよ、本当よ。私はただ器用で目立つだけ、底の方で光っている物をもっている。

私がなぜこの「一行」にしたかというと、美加と千津子の生きている内の最後の会話だからです。この時私が、美加のたちばだったら、とまどって、何もできないと思いました。でも美加は、ちゃんと「お母さん呼んでくる。」とてきぱきしていてすごいと思いました。私も、お姉ちゃんはいないけど、美加みたいにがんばります。でも私にはいとこがいます。いとこのお姉ちゃんとしてがんばります。そして、ぜったいにいとこたちをまもりたいとおもいました。

あれこれ考える前にはじめることである。

この一行を選んだ理由は、何かをやってみたいなと思うときに、あれこれ考えてしまう私の背中を後押ししてくれる一行だと思ったからです。例えば、みんながドッチボールをしている時にやってみたいなと思ったとすると、自分よりもみんながとても上手に思えて、やはり見ているだけの方が良いかなと、なかなか実行に移せないような場合があります。そんな時に、この一行を思い出し、ともかくまずやってみたら案外楽しくて熱中してしまうかもしれないと感じさせてくれる一行だと思いました。この一行にうまく乗せられるのも面白そうだとも思いました。

「今じゃなければできない演奏がある」と言った言葉の意味を、克久は温かな生き物の身体を抱き締めるように解った。

ブラスバンドに入る前まで心の中を黒くぬりつぶし、引っこみ思案だった少年・克久が、ブラスバンドに入って音楽と向きあっていくところにとても胸がジーンとした。それに仲間と一緒に気持ちの面など成長していく姿に、私の所属している金管バンドも克久の中学校のように成長していきたいと思った。中学生になったらこの本のように部活にぼっとうして楽しみ、迷ったりせずにつき進んでいきたい。私は伸び盛りの輝きを教えてくれたこの小説が大好きだ。

なぜ星が美しいか、誰も説明のできないのと同じように、数字の美を表現するのも困難だがね。

私が、この本の数ある一文の中でこの一行を選んだのは、記憶が八十分しかない博士が数字を深く愛していることがよく分かるからです。この本は、若いころに事故にあい記憶が一九七五年で停止している博士と家政婦、そしてその息子「√」の生活を描く悲しく暖かい物語。家政婦さんと博士の初めてのつながりは、誕生日と博士のうで時計だった。220と284。博士の書く数字は丸みがありうつむき加減の易しい字だった。この本を読んでいると、√、博士、家政婦さんの三人が今もどこかでひっそりと、しかし熱く数学を語り合っている気がします。数学の美を理解した博士が言うこの一行には、とても強く心を動かされ感動し、まるで自分に話しかけているかのようでした。

あのころの悦子は、人間の脱け殻だったのだ。

わたしがなぜこの一行をえらんだのかというと、「脱け殻」という言葉がむねにつきささったからです。脱け殻ということは、中になにも入っていないということだから、悦子は夫を亡くして、めのまえがまっしろになって、未来はないみたいな感じになったのでしょう。「脱け殻」という言葉で、さびしいし、ぜつぼうてきになった悦子のイメージがでてきて、いんしょうにのこったから、この一行にしました。

何十年もがんばるぞ。

『無人島に生きる十六人』

須川邦彦/著

200ページ

私が、この一行を選んだ理由は、二つあります。一つ目は、十六人が同じ事を思っていてみんなで協力していることです。協力はだいじだと思いました。二つ目は、ざい料も少ない無人島で生きているからです。本にはなんども、「がんばろう。」という言葉がでていてすごいと思いました。私も十六人のように、色々な人と協力し、がんばるという気持ちでなんでもとりくみたいです。

「この世」にいる時と、「あの世」にいる時、一度ずつなんですね。

「ツナグ」とは、死者と生きている人の再会をかなえてくれる人のことです。私は、この一行を読んだ時、いるはずのない「ツナグ」が本当にいるのかもしれないと思いました。なぜなら、「ツナグ」は、いろいろな人に会わせてくれるのではなく、「一度だけ」と言ったからです。私は、亡なったおじいちゃんに会いたいと思うけど、おじいちゃんは私よりもおばあちゃんに会いたいと思っているかもしれません。だから本当に「ツナグ」がいても、「おじいちゃんに会わせて。」と、お願いをしないで、終ってしまうのだと思いました。