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そのため、乱数ジェネレーター(RNG)システムについて詳しく学び、それらがどのように機能するかを理解することが重要です。カードゲームの世界では、ブラックジャックはポーカー、スロット、クラップスでヒープのトップ近くにランクされています。 他のゲームの人気はありませんが、それでも世界中で見られる非常に人気のあるゲームであり、プレーヤーの強い支持を得ています。 この理由の一部は、ブラックジャックが最も習得してプレイしやすいゲームの1つであり、その引き分け要因の1つであるためです。 さらに、ブラックジャックは最も広くプレイされているカジノゲームの1つです。つまり、ブラックジャックカードの価格はWebサイト間でかなり一貫しています。

ギャンブラーがオンラインで遊ぶ乱数ジェネレーター(RNG)システムには多くの種類があります。一部のシステムは完全にランダムですが、他のシステムはある程度の確率を使用します。最も広く使用されているカジノシステムは、単純な数学的計算を実行することによって数値を生成する一連の数学的アルゴリズムの使用を伴います。

実際、ライブカジノのほとんどのプレーヤーは、特定のゲームのオッズを計算する一連のアルゴリズムも使用しています。このシステムは、オンラインカジノゲームで使用されるどのアルゴリズムよりもほぼ確実に優れていますが、ライブカジノで使用されるものと常に同じ結果が得られるとは限りません。カジノはまた、特定のゲームの支払いについて決定を下すために同じアルゴリズムのセットを使用します。

カジノがゲームアルゴリズム

カジノがゲームを計算するためにアルゴリズムを採用する主な理由は、プレーヤーがどこに賭けるかを予測するカジノの能力を向上させるためです。また、カジノで利益を上げる必要があるため、効率的なシステムを使用することは理にかなっています。アルゴリズムは実際のゲームとカジノ自体との組み合わせでのみ機能するため、オンラインカジノでプレイすることを決定する前に、利用規約を注意深く読むことをお勧めします。あなたがオンラインカジノに行くとき、あなたはあなた自身のお金で賭けていることを忘れないでください。あなたはあなたがライブカジノから得るのと同じ質の経験を得るだろうと確信することができます。

カジノの乱数ジェネレーター

アルゴリズムは各ゲームのオッズを決定するために使用されるため、カジノの乱数ジェネレーターが何をしているのかを完全に理解することが不可欠です。プレーする前に、各ゲームで使用されるスピンの数をカジノに尋ねる必要があります。この数字は、ゲームに勝つことを期待できるようになる前に、カジノがランダムにデッキを回転させる必要がある回数を示しています。カジノがゲームごとにより多くのスピンを使用している場合、それは明らかに、より多くの乱数ジェネレーター(RNG)技術を使用していることを示しています。より少ないスピンを使用するカジノより。

カジノが各ゲームに必要とするスピンの数を決定したら、それを、カジノがプレイしたいゲームに使用するスピンの数と照合します。また、カジノのWebサイトを見て、カジノがこれらのスピンをゲームにどのように適用するかを確認することもできます。

ワタシの一行教育プロジェクト

好きな本から、気になった一行を選び、その一行に関する「想い」や「エピソード」を記述する、新しい形の読書エッセイコンクールが誕生。第一回の2013年度は、全国200校以上から、21288通もの応募がありました!

「こんなステキな一行があるんだ!」「あの人は、こんな一行を選ぶんだ!」。多くの著名人が一行推薦者として参加する「ワタシの一行」は、本を敬遠しがちな子どもたちが“本に出会う”チャンスを広げ、読書に対するハードルをグンと下げます。

たとえば「朝の読書」の記録として、あるいは「読書ノート」作りに…読書習慣を身につける指導に「ワタシの一行」はうってつけです。日付とともに書き留められた一行を読めば、本の内容ばかりか、その時の感動や心情が、心の日記のように鮮やかに蘇ります。

規定の文字数の大半が“あらすじの要約”になりがちな読書感想文。でも、「ワタシの一行」感想文は違います。同じ本を読んでも、どの一行を選ぶかは人それぞれ。その一行を選んだ理由も十人十色です。判で押したような要約形感想文から、個性きらめく感想文へ、子どもたちの可能性が広がります。

同じ教材や作品から、児童・生徒それぞれが選んだ一行を発表しあい、語り合う授業を通じて、感じ方の多様性を知り、想像力も養えます。また、その一行を前後の文脈の中で捉え直すことで、読解力を磨く機会にもなります。

たとえば蔵書を課題図書にした「一行」校内コンクールなど、学校図書館の活性化に一行を活用してみませんか?また、文学から歴史・科学・実用書まで世界のあらゆる事象を扱うのが「本」の世界。灘校の橋本武教諭が『銀の匙』1冊から教科を超えた授業を行ったように、総合的学習の場でも、様々な本からの「一行」は格好の教材となるはずです。

本のレビュー

苦しみに抵抗するのではなく、苦しみを認めて身をゆだねることが、パニックを脱出する近道。

ぼくがこの一行を選んだ理由は、「苦しみを認めて身をゆだねる」というところにおどろいたからです。そして、逆のことを考えたほうが何に対してもいい、とも書いてあったので、そういうふうにやってみて、やっぱりそのとおりだなと思いました。ぼくは今まで、苦しみに直面した時は何日もぐちを言っていましたが、次に苦しみに直面したときは、ぼくも苦しみを認めて身をゆだねてみたいと思いました。

一人の生きている人が『どんな人間であるか』なんていう質問に対して、客観的な答えがあるでしょうか。

人はみんな自分なりに生きているので、それに対して、『人にどのように見られているのか? 客観的な答えがほしい』ということはできないことが、本を通してわかりました。この一行に出会って、だれかに良く思われたり、特別に思われたりしなくても、自分らしく、自分を信じて、生きていくことは悪いことではないと思いました。この一行を読んだことによって、自分の生き方について考える機会ができました。

いいだろう。おれが、あんたの予見した死の運命を変えてやるよ。

この本では、少女の夢の中でおきた殺人事件が現実となります。人の死を予見するその少女は探偵の少年といっしょに、殺人事件が現実となるのをなんとか止めようとします。これまで、運命は変えることはできないし変わらないものだと思っていました。しかし、この本を読んで、運命は人の手によって変えられるものだということがわかりました。変えたいと思い行動に出れば、かん単ではないけど少しずつ運命は変わっていくものではないかと思います。これからは、なんか無理だなぁと思ってもあきらめるのではなく、自ら行動に出て、何が出来るのではないかと考え方を変えて行きたいと思いました。この本には、まだ2冊の続きがあります。なので残りの2冊も読んで、新しい発見をふやしていきたいと思います。

病院で息を引きとらぬ者は、夜ごとの空襲で死んでいく。

ぼくがこの一行を選んだのは、病院で息を引きとらず復活した人々が夜におこる空襲で死んでゆくということがとても、かわいそうだと思ったからです。そして、この本を読んで、生きた人を生きたまま殺すことがとてもざんこくなことだと思いました。生きたまま殺すということは、人殺しと同じことです。しかし、昔ではあたりまえだったのかもしれません。それは、昔の日本は差別問題が多かったからだと、ぼくは思いました。この「海と毒薬」という本を読んで感じたことはいろいろあります。この本は人体かいぼう実験などのお話が出てくるおそろしい話ですが、おもしろい場面も出てくるのでいい本だと思います。また読む機会があったら読んでみたいと思いました。

あんとき、ぼくが何が一番腹が立ったかというとみんな言わせたがるんですよ!『勝負したかったんです』って!

1992年8月16日、夏の甲子園二回戦星稜対明徳義塾戦のピッチャー河野和洋投手が、この本を書いたスポーツライター中村計さんに言ったこの言葉が心に残りました。当時、星稜高校の選手だった元ジャイアンツ、ヤンキースの松井選手を五打席連続敬遠した時にマウンドにいた河野選手は、言っていないことを新聞やテレビで言ったように報道されました。本当に言葉にしていないのに「目が語っていた」とか「うなずいた」とか、いかにも言ったかのようにしてしまう大人はこどものいじめよりひどいと思いました。あこがれの甲子園で勝ちたいのは当たり前だと思います。勝つために監とくから言われたことをするだけです。その時の気持ちは本人にしかわからないから第一章の失望のところで河野選手の本当の気持ちが書いてあります。今は指導者になった河野さんのチームがかつやくするといいなと思いました。

すまねえな、《鬼火》

ぼくが、この一行を選んだのは、主人公の伊織と弟の《鬼火》が山で野犬におそわれて、伊織が《鬼火》を守るために落ちていたぼうきれを使って命がけでたたかい、また、自分の力がつきるまで、勝てるかもしれないという希望を持ってたたかい続けた事にとても感心したからです。伊織が弟のために命をかけたことに、とても感心しました。ぼくも人にやさしくでき、いつも希望を持って生きるような人になりたいと思いました。

これから自分は、5回敬遠しても不思議ではなかった、そう言われる打者にならなければならない。

5回も敬遠されたら、ふつうは相手ピッチャーをうらんだり、にらんだりするが、松井選手は、そのようなことをせず、5回も敬遠されて当然と思われる打者になろうと決心しているところがえらいなと思いました。しかし、チームは負けてしまったのでかわいそうだなと思いました。明徳の選手は、甲子園で優勝することが目標のために色々と作戦を練ってきましたが、松井選手の目標は、甲子園で優勝する以外にも色々と高い目標を持っているから、このような態度がとれたのだと思っていました。僕は、サッカー選手になりたいという夢を持っています。松井選手のようにいやなことがあっても相手に怒らず、自分を、もっともっと成長させて、松井選手のように一流になりたいです。

泣きもする。喚きもする。それでもいつかやがて、ゆっくりと、わたしたちは現実を受け入れていく。そしてそこを土台として次のなにかを探す。探すという行為自体が希望になる。

『流れ星が消えないうちに』

橋本紡/著

332ページ

ぼくがここを選んだ理由は、こい人をなくしたことを受けいれるために泣きもする喚きもするけど、こい人がなくなったことを体に受け入れさせて、そこを土台として次のなにかをさがしていこうと思ってる主人公がすごいと思ったからです。ぼくは、ものすごく大切なものを友達にこわされてかなしくて、すごくないて、すごくわめいたことがあります。さいしょは受けられなかったけど、だんだんできていったのが少しこの本の主人公とにているなと思い、この一行にしました。

わたしたちの頭上を、加地君が作った夜空を、無数の星が流れていった。

『流れ星が消えないうちに』

橋本紡/著

335ページ

夜空を無数の星が流れる。この一行から、すごくきれいな景色が頭に浮かびました。ぼくも流れ星を見たことはあるけど、一度にたくさんの流れ星をみたことがないので、見てみたいです。

それまでは自分の力で書いていると思っていたんだけど、どう考えてもこれは違う、自分の力じゃない、神様が助けてくれているなァ、という事に気づいたんです。

漫画家を目指すぼくにとって、この一行はとても心に残る言葉でした。ぼくは漫画を書いているときに、このような体験はないので、これからこういう体験をしてみたいと思います。そのためにも漫画の練習を頑張ります。

たとえむだであってもですね、君も人間として、心の底から人の前に頭を下げたらどうですか。それはこの際必要なことじゃないんですか。

この1行を選んだ理由は、たとえ無駄であっても、やってみなくちゃわからないという、世間でよく使われるいわゆる「名言」の響きを感じられ、この内容が、とても素晴らしく、美しいと感じられたからです。またこの名言にかなりの衝撃を受けたため、この衝撃を伝えたいという気持ちも選んだ理由の中にあります。僕は、大袈裟に、言いますが、それほど、「おっ、これはすごい。教訓が二つもある!」という気もちが伝えたいんです。この一行を読んで、恐らく、多くの方々が「あまり、良いとは、思えない」と思うでしょうが、この世のシステムの教訓があって、素晴らしいと何度も繰り替えして言いますが、素晴らしいです。なので、この一行にしました。とても単刀直入ですが、ご容赦ください。

引き継ぐこの瞬間に、目を閉じていても光が感じられるほど温かい場所にいられること、今日がその日だということが、誰かからの祝福のように感じられた。

ぼくはこの本を読み終わったときに、とても感動しましたが、この1行を読んだ時が一番感動しました。なぜだかはっきりはわからないけれど、自分の胸の中に印象深く残っている一行です。

この一行に出会うまでは「人気者は基本的に世間の人に好かれているから人気」なのだと思っていました。しかし、この本を読んでからは、人気者は上記のような人もいるけれど、基本的にみんな努力して、負け犬になって人気者になっているのだと知って感心しました。つまり、努力をすれば報われるというのは正しいのだと分かりました。僕もこのように負け犬になって努力をして受験勉強に取り組みたいと思います。

そういうわけで私は阿呆たちのことをひととき忘れ、お気に入りの水玉ブリーフ一丁となって、宇宙の中央で阿呆ダンスを踊る。激しく、大胆に、艶めかしく。

四畳半王国ってなんだろう。なんだか夢がありそうでいい。ぼくの家にも座敷がある。六畳間である。四畳半はそれより、せまい世界だ。そこに偉大なる王といったって、一人だし、大学生のお兄さんが一日中ぐだぐだ忘想をめぐらせている。ぼくはだんだんつまらなくなってきた。やめるか。でもまだ途中だからなあ。よし、読んでやる。読み進むうちに、どうやら四畳半王国の“余”の他にも阿呆が、いるらしい。京都鞍馬山で修行の旅に出て、猪に出くわしくて、逃げまわるシティボーイ。へんな名前の温室の果実をほおばるヤモリぎらいの淀川教授に単位をねだる学生。ここまでくるとぼくは声を出して笑ってしまっていた。そしてこんな民にかこまれながら、“余”はお気に入りの水玉ブリーフで阿呆ダンスを一人踊るものである。ぼくは、この本のとりこになってしまっていた。

彼が言った。生真面目な口調で一語一語はっきりと。「死んだ人間と生きた人間を会わせる窓口。僕が使者です。」周りの音の一切、目の前の大通りの車の音でさえすべて断ち切るような彼の声を、私は呆然と聞いた。

この一行から、この話の中心人物である使者(ツナグ)のやっていることや彼の性格がよく分かります。すべてを断ち切るような声とはどういう声なのか、音量が大きいのかそれとも不思議な声をしているのか、とても気になりました。この一言で物語が始まっていくように感じられるので、選びました。

空飛ぶ路線バスの感覚は、日本の空にも広がってほしい。それは同時に、旅というものの復権でもあると思っている。

『格安エアラインで世界一周』

下川裕治/著

287ページ

日本は、交通きかんを使うことが多い。その中で、旅客輸送で、急速に発達してきているのは、飛行機だ。もちろん、一位というわけではないが、ほかのものとくらべると、発達している。それは、LCCという格安航空会社が発達したからかもしれない。最近は、外国への旅行も少なくなく、また、会社の仕事で行く人も多い。旅行は、旅行会社を使うかもしれないが、仕事で行く人は、LCCを使うのだ。こうして、飛行機は発達してきたのだと思う。しかし、まだ日本では、LCCが発達していない。そのため、LCCを日本にとり入れて、日本を進化させたほうがいいと思う。

日本もえらくなったものだ。あたりまえのふねがくるところじゃない太平洋のまんなかの無人島へ、日本船が二隻も集まったのだ。そして、一隻は難破、一隻はその助け船。これはまたふしぎなまわりあわせになったものだ。

『無人島に生きる十六人』

須川邦彦/著

238ページ

ぼくがこの一行をえらんのは、日本がやさしい、いい国だと思ったからです。この一行には、ふつうはくるはずのない太平洋のまんなかの無人島に日本船がさがしにきたことがかいてあります。そんな日本はとてもいい国だということが、この一行からよみとれました。

海は自然を超えた、驚くべき存在を担っているのです。

『海底二万里(上・下)』

ジュール・ヴェルヌ/著、村松潔/訳

上巻162ページ

このネモ船長の言葉は、海のすばらしさがよくわかる言葉だと思います。海とは地球の10分の7をおおっていて、その海には鉱物、植物、動物の3つが含まれています。これによって海は自然にあふれていると言えるのです。このことに気づいたネモ船長の気分はどれだけ良かっただろうかと思います。

親子の絆はへその緒でも卵の殻でもないことも分かった。

この本の内容は、捨て子の「子」とその「母」の、強く確かな絆を描く話です。私がこの一行を選んだ理由は、二人のつながり、絆は目には見えないという意味がこめられていると思ったからです。つながり、絆は目に見えないというのはなんだかすてきだなと思いました。私には、お母さん、お父さん、弟がいます。家族四人の絆が目に見えないところで強く確かなものになっていると思うと、なぜかうれしくなりました。絆というのは人と人とを結ぶ糸のようなもので、絆が深くなるほど糸は太くなり切れなくなることなのかなと思いました。これから絆についてたくさん考えてみたいです。

小さな頭に頬ずりすると、三つめの命はもう一度「にい」と鳴いた。

私がこの一行を選んだのは、本のいちばん最後にこの文があって、とても心に残ったからです。これまでの悲しい気もちが一気にふっとんだ感じがして、とても感動しました。うれしいような、切ないような感じがまざって涙が出ました。私はこの一行で本の印象が変わったと思います。本の中から選ぶならこの一行だとすぐきまりました。理由は先にも書いてあることもそうだけど、読み終わった時には猫が本当に近くで鳴いた気がしたくらいです。私はこの一行がやっぱり一番大好きです。

恐れながら、泣きながら、進もうと思う。

『流れ星が消えないうちに』

橋本紡/著

332ページ

突然の事故でなくなった恋人の加地。奈緒子は、加地の死のせいで他人の死を知るのを恐れるようになった。けれども奈緒子が自分にささやいた「恐れながら、泣きながら進もうと思う。」という言葉で、私は、勇気づけられた気がした思いました。そして、本の題名の「流れ星が消えないうちに」のように、最後のページで、奈緒子が加地の事で流れ星に願っていたところも心にのこりました。

果たしたくても果たせんかった夢やな。プロ野球選手になりたかったけどケガをして野球そのものをやめてしもたとかな。果たせんかった夢の未来やからきれいに輝いてるんや。これは夢の色、夢の輝きやな。

私がこの一行を選んだ理由は、本を最後まで読んだ後思いかえしてみて、一番あたまにのこっていた一行だったからです。理由はもう一つあります。それは「果せんかった夢の未来やからきれいに輝やいてるんや。これは夢の色、夢の輝きなんや。」という言葉に感動したからです。形にはなっていないと思うけど、実ざいしていると思います。これが私が一行を選んだ理由です。

生きてるって、なんか、すごい――。

私がこの一行を選んだ理由は、命の大切さや、自分が今生きていることがとてもすごいことであることを、改めて感じることができたからである。本の中で、主人公の親友である女の子が、「人間ってさ、みんな、ぎりぎりのところで生きてるんじゃないかって気がするの。」と言っている。私も、そうだなと思った。テレビでも、たまにトラックなどにひかれて、亡くなってしまうニュースを見る。私は、その時、「あと一秒でも早かったり、遅かったとしたら助かっていたのかな。」と、いつも思う。だから、私も、そして私の周りにいる人たちも、もしかしたら死んでしまうのかもしれないと思った。普段いつも遊んだり、話したりしている友達との時間は、一秒一秒、大切に過ごすべきなのだ、ということをこのお話を通じて、実感することができた。

不都合でなければ、通帳を拝見したいのですが。

私は、もともとちょっと怖い本がすきです。この本でも、なにげなくつよい口調でいっているところでは、心がドキドキ、ワクワクになります。そんなことをいわれたら、いわれた人はどう反応するのかという、ドキドキ感です。ワクワク感のほうは、それをもし自分がいったら、どんなきもちになるのかというワクワク感でした。こんなにおもしろい本を読んだのはひさしぶりで、とてもたのしんで読めました。

殺人者は赤い手をしている。しかし彼らは手袋をしている。

私がこの一行を選んだ理由は、二つあります。一つ目の理由は、この言葉は、表の顔は大手製薬会社のあとつぎ、そしてうらの顔は殺そうとおもえば人を殺せる人間の言った言葉なのです。だからそういうところがスリリングな感じでいいと思いました。やがてこの言葉をいった人の兄が世を去る前に絵をかきます。その絵ははじめはむらさきですが、あとから朱に変わるという工夫があります。そして絵の主人公の手にはむらさきの手袋をした絵をかきました。だから主人公の手は赤くなるのです。そう、兄をころしたのはこの主人公、内名あまりという少女だったのです。だから、この絵をかくときに兄の早太郎は自分を殺すのがだれかをわかっていたのです。それが、この一行を選んだ二つ目の理由です。

人間ってのは、身近なものの死しか感じることも悲しむこともできないないんだよ。

この一行に出会った時、様々なことが思いうかんだ。どれだけ願っても人間という生物は絶対いつか死んでしまう。「ツナグ」は生きている意味と死んでしまう意味の両方を教えてくれた気がする。もしも、人間がずっと生きられる生物だとしたらどうなるのだろうか。メリハリがなく、とてもつまらない人生になってしまい、生きることの意味を失ってしまうだろう。だから、日々流れていくすべての瞬間をもっともっと大切に生きていこうと思う。家族をもっともっと大事にして人にやさしくしよう、と「ツナグ」を読み終えた瞬間、私はその場で心にちかった。

死んだ人間と生きた人間を合わせる窓口。僕が使者です。

私がこの一行を選んだ理由は、私が産まれる前に亡なったおばあちゃんに会ってみたいと思ったからです。もし、使者(ツナグ)が、死んだ人間と、生きている人間を会わせる窓口なのであれば、私は絶対に行きたいと思います。読み始める前に『ツナグ』という題を見て「ツナグ」ってなんだろうと思いながら本を開きましたが、読み始めると「ツナグ」ってどんな人でどんなことをしているのか知りたくなりました。私はこの一行を読んで「ツナグ」のことがよくわかりました。そして、先の話がもっとはやく読みたくなりました。

年とって分かったことのひとつは、考えには結論というようなものは無いにひとしいということである。

「考えには結論というようなものは無いにひとしい」というのは、みんなそれぞれ同じ考え方ではないということだと思います。たとえば、算数の授業や国語の授業のときに、わたしたちは、一つの答えに対して、いろいろな考えを発表し合います。一つの考えに向かっていろいろな考え方をするのは、一人一人の自由だと思います。いろいろな考え方があって、それを聞くのがとてもおもしろいのです。だから、私も、考えには結論というようなものは無いにひとしい、と思いました。

今日がその日だということが、誰かからの祝福のように感じられた。

今日生きるということ。そして明日がくること。それは普通であって、あたりまえなのかもしえない。しかし、この一行を読んでそれは、生きているからこそできることなのだと思った。また、誰かからの祝福のように感じられる、という言葉。自分ならば誰と会うことを願うのか、それはその人からの祝福なのだろうかということを考えさせる一行だった。

「実加!私よ!」お姉ちゃん――? お姉ちゃんの声? 私、もう死んじゃったのかしら?

死んだはずのお姉ちゃんの声が、ふと実加の耳に聞こえてきて、実加は、もう自分は死んでしまったのか、あの世へいってしまったのかと思ってしまいます。もし、その前のシーンでジャンバーの男が実加をおそおうとしなかったら、お姉ちゃんは実加の中に住みつくことはなかったかもしれない。そんな「分かれ道」のような場面なのがおもしろいな、と思ってこの一行を選びました。

『ミラクル』辻仁成/著、望月通陽/絵

奇跡とは目に見えるものではなく、心の内側に降る雪のようなものかもしれない。それはやがて積もり、春の訪れとともに溶けていく。

『ミラクル』

辻仁成/著、望月通陽/絵

165ページ

ぼくも、「奇跡とは目に見えるものではなく」という意見と同じ意見です。理由は、これと同じけいけんをしたからです。同じというより、少し似ているかんじです。いつかはわかりませんが、おそらく塾の帰りだったかもしれません。ぼくが、自転車で走っていると、車が急に飛び出して来て、ぼくはブレーキをかけようとしましたがなぜかその時だけブレーキがきかず、その時ぼくの頭の中には、今までの思い出がフラシュッバックしました。車が止まって、車に自転車がぶつかるだけですんだのです。運転手さんに聞いてみると「目の前に老ばの姿がみえたんだよ」といっていました。というお話です。ぼくは、その話を信じています。老ばといっていたからそれは、ぼくのおばあちゃんだと思ます。これが本当の奇跡だと思います。

《eπi+1=0》 それはいつもそこにある。決して変わらぬ姿で、静けさをたたえながら、私が手をのばせばすぐ触れられる場所にある。

《eπi+1=0》これは、記憶が八十分しか持たない博士が、主人公の家政婦と博士の義姉が口論になった時に書いた数式だ。レオンハルト・オイラーが見つけた公式で、「πとiを掛け合わせた数でeを累乗し1を足すと0になる」という理解しにくい意味が一つの式にまとめられている。僕にはまるで未知の宇宙が手にのるほどの大きさで目の前にあるようにも思える。家政婦はこの数式が書かれている紙をいつも大切に持ち歩いていて、家政婦が博士のことを思い浮かべるたびに文章中に登場する。また、「それはいつもそこにある」という言葉から博士も数式もずっと家政婦の心にいつも寄りそう存在であり、家政婦にとってかけがえのないものだと感じた。だから、僕は数式が博士の象徴のように思えたのでこの言葉を選んだ。僕の象徴といってもすぐには思い浮かばないが、大人になってもしも数学者になったら博士のように偉大な数式を象徴として生きる人になりたいと思う。

博士の幸福は計算の難しさに比例しない。どんなに単純な計算であっても、その正しさを分かち合えることが私たちの喜びとなる。

博士は数学雑誌の懸賞問題一等獲得者である。それに全く執着するわけでなく、誰よりも先に解くことを考えているわけでない。ただ美しく解くことを一番に思い数学を愛している。だから難しい問題について家政婦やルートに問いかけたり、教えたりするのではなく、会話を交わす様に数式を使い言葉のかわりに数学で答える。2人にとってもそれは苦ではなく、興味をそそられ数学の神秘に引きこまれ、いつしか3人の中では日常の出来事となり、ここちよい時間を過ごしている。その博士に対して主人公の家政婦が思っていることである。ぼくは人とある物事について分かち合えることは、人にとって、とても嬉しいことだと思いました。

トムは通りを悠然と、口をハーモニーで一杯に、心は感謝の念で一杯にして歩いた。新しい惑星を発見した天文学者の気分だった。

『トム・ソーヤーの冒険』

マーク・トウェイン/著、柴田元幸/訳

18ページ

これは、トムがある黒人から教わったばかりの、新しい口笛え吹きの枝を練習してコツをつかんで得意になっている場面です。ぼくも口笛えを吹けるようになりたくて何度も練習をして少しずつ上達していくうれしさがわかるから選びました。

おのれらは、人間ではない。

この一行を選んだのは、女房のお国を殺された主人公・無門の悲しい思いや、お金を出せばなんだってしてしまう下人忍者たちへの激しい怒りが伝ってくるからです。もしぼくが無門ならば怒りどころか頭がまっ白になってうごけなくなってしまうと思います。お金のためならどんなことでもしてしまう下人忍者たちのように自分のことしか考えない人には、絶対になりたくないと思いました。

そんな無謀とも思われる山下のノックの精度は抜群だった。

ボールをのせたビールびんを内野にならべて、それをノックで打ち落とす。もし、ノックのボールがびんに当たってしまったら、ガラスがわれ、グラウンドにはへんが飛び散ってしまって、やっかいなことになる。ぼくは、こんなつらい練習をしているからこそプロになれるんだなと思いました。この練習法のようなきんちょう感を持てば、テニスでもプロになれると思います。ぼくも、そのようなきんちょう感あふれる練習法を取り入れればかならず強くなると思います。自分に欠けていることが書いてある一行で、とてもいいなと思いました。

生きてるって、なんか、すごい。

ぼくがこの一行を選んだ理由は、本当に共感できる言葉だったからです。この本を読む前は、別に生きてることは日常的で何がすごいのかよく分かりませんでした。ですが、この本を読み、なぜ生きてることがすごいのか分かりました。よく考えるとぼくたちも十二年の間に死んでしまうタイミングはいくらでもあり、うまい具合にそこにあたらずに生きてこられたのだと思います。だから、ぼくは命を大切にするしみんなにも命を大切に生きてほしいと思います。どんなに苦しく辛いことがあっても自分で命を断つことは、「絶対に駄目です」。生まれた事に感謝をして、精一杯生きて、最高の人生にしたいなとぼくは思いました。

「怪物の問題」が人々を燃え立たせた。

『海底二万里(上・下)』

ジュール・ヴェルヌ/著、村松潔/訳

上巻17ページ

人々に深く知られていた「怪物問題」、それが人々を燃え立たせたというと、どれくらい問題になっていたかがよくわかりました。それに、燃え立たせたという言葉が心に残りました。

陰徳を積め。

ぼくが、『銀行王 安田善次郎』を読み、「陰徳を積め」というところに感動したのは、世のため人のために、物事をやるとき、何のためにするかということでした。人はだれかにほめてもらうためにつくすのではなく、陰ででも人のために役立つことが大切だということです。そしてこの安田はこの陰徳を積んだから明治政府を支えて近代日本の発展に役立ったと思います。でも安田はだれにも自分をアピールしないで死んでしまったのかもしれないです。

満点の星が泪で滲んで、線のように光が伸びて、ボアボアの星になった。

戦争がじょじょに近づいてきて、少年H(肇)とその友人たちも巻きこまれてしまう。友情にヒビが入ってしまった悲しさ、自分じゃどうすることもできない悔しさ。戦争という苦しい現実が、この一行にとてもよく表現されていると思いました。

漠然とした目標に対して、スイッチを入れるわけにはいかないんです。

ぼくがこの一行を選んだ理由は一つある。それは、ぼくの目指す目標はいつも漠然としていて、そのうえ達成できていないからだ。具体的な事を目標にして目指せば必ず達成するかどうかはわからないが、この一行を読むと、達成できるような気持ちがわきでてくる。この言葉が胸にしみて、だんだん具体的な目標を作ろうという気持ちになった。そんな、やる気がでてきたからこそ、この一行をえらんだ。

困難に直面した時に、勤勉、勇気、思慮、熱心の四つがあれば、少年たちでも、必ず打ち勝つことができる。

『十五少年漂流記』

ジュール・ヴェルヌ/著、波多野完治/訳

271ページ

熱心、思慮、勤勉、勇気があれば、なんでもできそう! そんな自信をくれる一行だ。ぼくは、サッカーをしている。サッカーでは、日々の練習はもちろん、強いやる気や仲間との連けい、高い集中力が必要だ。ちょうど、四つの言葉と重なる、とぼくは思う。漂流した少年たちと環境はちがうけれど、四つを合わせて困難に立ち向かう姿には共感できる。来年ぼくは、中学生になる。今よりも社会が広がり、環境も変わるだろう。どんな困難が待っているか分からないが、いつの時も、この四つの力を持ってがんばりたい。

人間は誰もが弱いってことだ。

人間は自らの弱さを隠し合い生きている。本書では人の本能が素直に描かれており、ついつい自分の弱さを表に出せない自分がいることに気付かされた。筆者は人間の弱さを決して悲観的に捉えず、むしろ、人どうしが助け合い、互いに心を寄せていくことを大切にしている。「人は一人で生きていけない」、これをじかに肌で感じとれる一冊であった。

ニシノマジョ カラ ヒガシノマジョ ヘ オバアチャン ノ タマシイ、ダッシュツ、ダイセイコウ

この伝言は、おばあちゃんが死んだときに、汚れたガラスに書いてあった最後のおばあちゃんの伝言です。まいとおばあちゃんは、言葉をかわさなくても、心が通じていることがわかり、お互い共に大好きだということにとても感動しました。また、自然から教わった知恵や温かいこう景を思い出されるような気がしました。まいがおばあちゃんと静かな日々を過ごし、まいとおばあちゃんの関係はすごく深くなったと思いました。人は都会で暮らすより、田舎で自然にふれながら生活した方が自分の良さが出るのではないか。人と人との関係も良くなるのではないのかと思いました。私も都会で暮らしているので、田舎でも暮らしてみたいと思いました。

天城さんは狐の面をつけていた。

私がこの一行を選んだのは、この話の題名と、読み終えてからの気持ちが関わっていると思ったからです。この「天城さんは狐の面をつけていた」というのは、「僕」を何度も家に呼ぶ割には本性を明かさず、ひっそりと怪しげに生きている「天城さん」と、この話の題名でもあり、昔から日本で「狐につままれる」という諺があるほど人前で化けてきた狐が一体となっている感じがしました。そこから私は、この話の中の本当の狐は「天城さん」なのではないか、と思いました。つまり、私が『きつねのはなし』の中で、一番この話らしいと思ったのがこの一行だったのです。

でもあんたは、もっともっと底の方で光っているものを持ってる……。

死んでしまった姉・千津子と、その声が聞こえてしまう妹の実加。この一行には、「勇気をもって前に進みなさい」と妹を勇気づけ、励ます姉妹の“絆”を感じました。私にも妹が2人います。毎日けんかもします。もちろん仲良くもします。けんかをしても、私と妹たちの“絆”というものは本質的に変わりません。そんな体験も含めて、私はこの一行を選びました。

ねぇ、どんなにすばらしいことか、私、初めて知ったわ。家族が集まって、おしゃべりしたり、笑ったり……。どんなに下らないことだっていいの。何も話さないより、ずっとずっと、すてきなのよ。

家族がいる。それは、私たちにとっては、普通の事だ、でも、この「ふたり」の主人公である実加は姉である千津子を不慮の事故で亡くしてしまう。その事でとても落ちこんだ家族は、会話があまりはずまなくなった。でも、実加がおそわれるという事件がおきた夜、実加が助かったことで昔のように食事での会話がとても楽しいものになった。それを機に実加は千津子の死を受けとめ、母といっしょにテレビをみて、笑うようになった時にいった言葉が、私の一行だ。私はこの一行にこめられている気持ちは何かと考えてみた。悲しみ、苦しみ、こんな言葉が最初はたくさん頭にあがった。でも決してマイナスな気持ちだけではないと思う。嬉しさ、喜び、親子愛、その言葉もあてはまるのではないだろうか。プラスとマイナス。この短い文章で両方の感情を読者に伝え、深く考えさせてくれる、赤川次郎さんはすごいと思う。だから、私はこの一行を選んだ。

それはもっと掴みどころがなくてとても確かなもの。

私がなぜこの一行を選んだかというと、誰もが共感する一行だと思ったからです。親子の絆は形はなくて掴みにくいけれど、とても確かなものです。私と両親も、いっしょに笑ったり、泣いたり、ケンカをしたりという何げない行動を通して、見えない絆で「ぎゅ」っとつながっていると感じます。目に見えるものはいつかこわれたり、なくしたりしてしまったり、終わりをむかえてしまいます。だから見えなくて形がないその人と人をつなぐ絆を、今日も感じ、気付きたいと思います。

身を起こして、はるか谷間の金閣のほうを眺め下ろした。異様な音がそこからひびいて来た。爆竹のような音でもある。無数の人間の関節が一せいに鳴るような音でもある。

一番最初に目についたのが「無数の人間の関節が一せいに鳴る音でもある」でした。ふだん、本を読んでいてこのようなたとえ方を見たことがないので、おもしろいなと思いました。また、「関節が一せいに鳴る音」とはどんな音かを想像する楽しさもあります。その一文の前に「爆竹のような音でもある」という表現が入っているので、実際にはどんな音なのか思い浮かべることもできます。このことだけでも『金閣寺』という本のおもしろさが伝わるなと思い、この一行を選びました。

生きているって、なんか、すごい―。

好きな事をいっしょうけんめいして、できた時、成功した時に喜びを感じるのは生きているからです。生きていないと感じません。習い事の大会で、自分でなっとくできる結果でしかも3位になった時、今までに感じたことのないようなうれしさが、むねにこみあげてきました。表しょう式で周りの友だちに「おめでとう、すごかったね」と言われた時、「ああ、生きているってなんかすごいな」と思いました。どんなにつらいことがあっても、何かをやりとげたらだれでもうれしいと思うし、「生きているってなんかすごい」と思う。だから、この一行をえらびました。

いつだってそうさ、できごとより、考えのほうが何倍もこわいんだ。

私がこの一行を選んだのは、自分にも当てはまることがあると思ったからです。私は、五年生の臨海学校で、きも試しをした時のことを思い出しました。その夜は、暗やみの中に入っていくまで、とてもこわくて、ずっときん張していました。しかし始まってみると、思っていたほどこわくはなく、いつの間にかきも試しは終わっていました。このことを思い出して、おばあさんの言葉と自分の経験が重なり、共感しました。私は、悲しい時やつらい時は、おばあさんのこの言葉を思い出そうと思います。考えすぎずに、目の前にあることをひとつずつやりとげていくうちに、それは、いつの間にか、ただの出来事になっていきます。私も、もうだめだと思うような困難を、このように乗り越えていこうと思います。

ぼくはしっかりと見届けなくてはならない。最後まで、決して目をそらしてはならない。

この一行からは、死んだおじいさんにたいする、三人の少年たちの感謝の気持ちが熱く伝わってきた。おじいさんが死んでしまってショックは大きかったようですが、おじいさんに出会えたことは、三人にはとても良い経験になりました。この経験のおかげで、きっと今後お年寄りにも親切にでき、素直になれると思います。その例が「河辺」です。最初は、素直になれなくて意地っ張りなところがいっぱいありましたが、おじいさんと一緒に過ごすうち素直になってきたり、おじいさんが花火職人だったことを知ると、将来の夢を花火職人になることと決めました。おじいさんとの出会いは、いろいろなことで三人を成長させてくれた、すばらしい出会いだったと思います。

描かないとダメなんだ。

この『黄色い目の魚』を読んでいるうち、いろいろな思い出が出てきました。その中で一番心に残ったのが「勉強」と「受験」のことでした。自分でもあまりよくない思い出だけど、私は一時勉強がものすごく嫌いで、家族に対してとても冷たく、自分で自分が嫌いで、そんな私をどんどん怖くなってきて、嫌な気持ちになっていました。そんな時に助けてくれたのは「友達」です。友達のお話を聞いて、嫌でもみんな勉強をがんばっていて、学校の先生もいろいろ私に一生懸命教えてくれて、私もがんばらないといけないなと気づきました。今も勉強は苦手だけど、精一ぱいがんばろうということを忘れないようにしていきたいです。こういう所が似ているんではないかと、この一行を選びました。

生きているって、なんか、すごい―。

私が、この一行を選んだ理由は、自分も生きているということについて考えてみたかったからです。『星のかけら』ではこの一行の意味は、毎日、昨日とはちがう一日が待ちうけている、というようになっていますが、その通りだと思います。私も毎日がちがっていて別の毎日があるということがすごく幸福に思います。まだまだやりたかったことがあっても、死んでしまってはなにもなしで全てがおしまいです。それはとても残念で悲しすぎます。だから、やりたいこともできないことも、無理だとは最初から言わずに限界をこえてチャレンジをして、やりたいことにたくさんの時間がつかえるように長生きをしたいと思いました。

人生の三分の一を、由香ちゃんと一緒に過ごしてきた。

人生の三分の一である五年間の思い出を残して由香ちゃんは死んでしまう。由香ちゃんが死んでしまうと、時間がたつにつれ由香ちゃんと過ごした時間の割合は小さくなってしまう。由香ちゃんがいつか病気で死んでしまうとは分かっていたが、「もっと」を消しさることができないことがとても悲しい。だから、いくつになっても覚えていたい。友だちの病気と向き合っていることで友だちの大切さがよく分かる一冊だ。

本について

『死ぬ』っていうのは、ただ『いなくなる』っていうだけじゃないの。『生きられなくなっちゃう』ってことなの。

ぼくがこの一行を選んだ理由は、生きていればいろいろなことができたのに、生きられなくなっちゃうことで、どんな夢があっても、たくさんやりたいことがあっても、もう何もできなくなってしまうからです。これを読んで、ぼくは長生きをして夢をかなえたり、やりたいことを全部やってみたいという気持ちになりました。

―わたしには、絶体かなわないよ。

ぼくには、この章の主人公・嵐美砂さんのように親友の御園奈津さんを殺した(と思ってしまった)ことはありません。でも、自分のかんちがいで、大変なことになってしまったことはあります。なので、本当は御園さんが「あらし」と言ったのに、それを「わたし」と聞きまちがえて親友に大変なことをしてしまったと、嵐美砂さんが自分をせめ続ける気持ちがとてもよくわかりました。

俺たちは[機研]だった。[機研]は俺たちのものだった。その時代は消えない。なくならない。思い出せばいつもそこにある。それはなくなったのではなく、宝物になった。

宝物は、物のように形があるものだけではありません。目には見えなくても、生きてきた中での体験や経験も大きな宝物です。学生時代に全力で、本気で、意味など考えずに、毎日無我夢中で何かにぼっとうできたことや、それと一緒に行動できた仲間は一生の宝物だと思うのです。たとえ形には残らなくても、心に深く刻まれて決して忘れない。そんな経験がうらやましいと思いました。僕もこれから中学、高校、大学でそんな仲間や出来事にめぐりあえたらなと、期待で胸がふくらんだ一行です。

私は、ずっと前に水にこまって島にあがったとき、木の根のちかくをほったら、水が出たことがあります。草の根にちかいところにわりあいいい水があるのではないでしょうか。

『無人島に生きる十六人』

須川邦彦/著

101ページ

この一行をえらんだ理由は、一番ここが「たしかに!」と思ったからでした。もし、この鈴木漁業長がいなかったら、水(清水)がのめなくて、この十六人みんながこの無人島でのどがかわき死んでしまったかもしれません。本当に、鈴木漁業長がいてよかったなと思いました。それから、16人、というか残りの13人のために、榊原運手士、鈴木漁業長、井上水夫長の三人のえらい人が、つかれていて早くねむりたいのに、こうして小声で話し合いをしているのですが、ぼくだったら、とっととねてしまっている、とてもまねできないと思いました。

そう言いながら、中原千絵子はふと思う。けれど本当に人生が変わったとしたら、それはその本を読んだときではなくて、その本をだれかのために選んだときかもしれない、と。

『さがしもの』

角田光代/著

213-214ページ

本は良くも悪くも人の一生を変えてしまう力を持っています。よく、本を読んだおかげで、自分はこうなれたという話をよく聞きます。ぼくもそんなことを期待して読書をしていますが、自分ではどんな影響を受けたのか気がつかないのかもしれません。他人に本をすすめたり、プレゼントしたりするのは、その本を知りつくしているからできることです。そこには深い思いやりと重い責任がともなうものだということを教えられました。

わからない。しかし、どこの国の船であれ、夜半までには沈められてしまうだろう。いずれにせよ、正当性があるのかどうかわからない復讐の共犯者になるよりは、あの船といっしょに海の藻屑になるほうがまだましだ。

『海底二万里(上・下)』

ジュール・ヴェルヌ/著、村松潔/訳

下巻460ページ

ぼくが、この一行を選んだ理由は、読んだときにすごくびっくりしたからです。とくに、「海の藻屑になるほうがまだましだ」という言葉におどろきました。なぜならそれは、共犯者になるくらいなら死んだほうがましだ、ということだからです。そんな強い気持ちが心にのこったので、ぼくはこの一行にしました。

いつでも笑顔を絶やさない点だけは気にいった。キャストには重要な素質だ

『ミッキーマウスの憂鬱』

松岡圭祐/著

15ページ

これは、ジャングルクルーズの船長役の採用試験で、主人公の後藤がきんちょうして変な言葉を言って大失敗をしてしまい、試験官たちがかたまっている時に、ある試験官がつぶやいたセリフです。ぼくは、このセリフはこの本の中でたった一つの希望のような気がしたので選びました。それにこの話は、全体的にもめごとや事件が多かったので、最初に出て来たこのセリフが本を読んでいた間じゅうぼくの心の中にひびきわたっていました。

そして、親子の絆はへその緒でも卵の殻でもないことも分かった。

この一行を選んだ理由は、ほかの行よりも、家族というつながりがなくとも絆はうまれるということがよくわかる行だったからです。家族がいない人の視点での物語ですが、もし僕に親がいなかったら、と思うとぞっとしてしまいます。それだけ家族は重い存在で、とても大切のないもの、逆にいなくなればかなしくなるもの、ということをあらためてにんしきしました。この文章の人と同じように家族がいない人もいるのだから、家族がいるだけでもいいじゃないか、と思えるようになりました。

無人島に流れ着いた人たちが死んでいったのは、自分はもう帰れないと絶望したのが原因であった。今日からはいつでも強い心で、しかも愉快に男らしく、毎日はずかしくなく、暮らしていかなければならない。

『無人島に生きる十六人』

須川邦彦/著

85ページ

ぼくは週末にボーイスカウト活動をしています。仲間同士で地域の奉仕活動をしたり、キャンプなどの野外活動をしています。去年「十五少年漂流記」を読んで冒険小説がおもしろいと思ったので、今度は本当にあった冒険の話を選びました。  この本を読んで、心に残った場面は三つありました。一つ目は、無人島に着いた時、船長が「この島に住む」と数分もたたないうちに決めた決断力です。ぼくならもっと周りの人たちと相談したりするだろうけれど、船長がすぐに決めたところがかっこいいと思いました。その上、住むという決断を船員のみんなに話したときにはそれぞれの役割分担まで決めていたので、さらに驚きました。ほくもこの船長のようにすばやく役割分担を決められたらいいなと思いました。二つ目は、何かを完成させようとする時にみんなで協力した知恵と努力です。それは見張り山を作るときと井戸掘りの二つの場面で感じました。見張り山を作る時、最初に砂を引っ張って運ぶ代用車を考え出したので、一気に仕事が楽になりました。また、井戸掘りの場面では、のどが渇きながらも掘り続けました。一回目がだめでも二回目をあきらめずに掘り続けます。深く掘ると塩辛くなってしまうことが分かって、掘る場所や深さをみんなで話し合って工夫して掘り続けました。結果としては少し塩辛い水しか出ませんでしたが、あきらめずにいろいろな工夫と努力を続けていたのにはとても感心しました。  三つ目は、四人のリーダーたちが心の土台についで話し合うところです。船長が「今まで無人島に流れ着いた人たちが死んで行ったりしたのはたいがい絶望してしまったのが原因だから、十六人が一つの固まりになっていつでも強い心で、しかも愉快に、ほんとうに男らしく、毎日毎日をはずかしくなく、暮らしていかなけばならない」と言い、運転士、漁業長、水夫長たちも若い人たちが気を落とさないようにしてがんばりますと誓い合いました。ぼくがこの本で一番心に残ったのはこの場面です。

何ということはない、四人の父親たちの声がぴたりと重なったものだ。「おい、由紀夫、助けに来たぞ」

『オー!ファーザー』

伊坂幸太郎/著

505-506ページ

ぼくがこの一行を選んだ理由は、この一行を読んだ時、これで由紀夫は絶対たすかると思いとてもうれしくなったからです。由紀夫がつかまってから、この先いったいどうなってしまうのかハラハラしながら読んでいたので、この一文を読んで心の中で「やった!!」とさけびたくなりました。四人の父親たちの声がぴたりと重なったという所から、いつもはけんかしている四人も、今は由紀夫のために、力と心を合わせていることが伝わってきてとてもよかったです。

こら罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。

ぼくがこの一行を選んだのは、自分がもともと罪人であったことを忘れ、自分勝手で思いやりのない心が表れていると思ったからでした。だから、糸も切れてみんなもとの地獄に戻ってしまったのだろうと思いました。もしこの男がこんなことを言わずに、「おい罪人ども、みんなで協力したらどうか。」と呼びかけたら、糸は切れなかったかもしれません。罪人にも人のために優しくなろうとする気持ちが芽生え、みんなが幸せになればいいと思ったかもしれません。人間は一つの種のようなものであり、それが芽生え、思いやり、助け合い、時には反省して、やっと一番大切な存在になるのだなと改めて感じました。

脳の仕組みを知らずして勉強することは、ルールを知らずしてスポーツの練習に励むことに似ています。

僕は受験生だ。塾の先生からは耳にタコが出来る程、「この夏休みが勝負ダ」と威されている。だから、最強の勉強法を手に入れるために百冊もの本の中からこの一冊を選んだ。読み始めてすぐに感動的な一行を発見した。そうだ!! 僕は全く脳のルールを理解していない! がむしゃらだけじゃうまくいかないんだ! そして本を読み終えて分かったことがもう一つ、例え効率的な学習方法を身に付けたとしても結局努力なくしては成績は上がらないのだ。やっぱりか……・。どうやら、忘れても忘れてもめげずに僕の海馬に情報を送り続けるしかないらしい。ただ、この一行には勉強にとどまらず、日常生活のあらゆる場面で活用出来る見解が集まっていると感じた。やっぱりスゴイ一行だ。「受験脳」を意識しながら努力を積み重ね来年の受験に自信を持って挑みたい。

まいと一緒に暮らせるのは喜びです。私はいつでもまいのような子が生まれてきてくれたことを感謝していましたから。

例えば友達とけんかをしてしまった時。テストで悪い点数を取った時。何かが上手くいかないときには、自分のことが嫌いになる。他の人がとても優秀に見えて、自分に自信をなくしてしまう。でも、そんな時にこんな言葉を言われたら、ずっと心にあった暗い気持ちが吹き飛んでしまう。どんなにダメな私でも私の事を好きだと思ってくれる人がいる。しかも生まれた事に感謝までしてくれている。それだけで自分の存在が、悪くないんだと思えてくる。誰かが自分を受け入れてくれる。存在全てを受け止めてくれる。こんな素敵な言葉をもらった人は、きっと強く生きていくことができるのだろう。

とにかく、終わりが来るそのときまで、わたしたちは生きていくしかないのだ。

『流れ星が消えないうちに』

橋本紡/著

332ページ

いくら、人生の中で辛いことがあったとしても、それに耐えて、がんばって生きていくしかないのだと気づいた。いじめられたり、友達と別れたりしても、死ぬときまで生きていくしかない。だから希望になることを探す、ということが大切だということにあらためて気づかされた。希望というのは、友達の存在、家族の存在、大きくなれば恋人の存在など、たくさんあるので、辛いことがあっても、大切な仲間の存在に感謝し、生きていることの喜びを感じることが大切だとわかった。

人間を殺すという行為は世界に溢れているが、本来、それに対して、何をしても、釣り合いを取ることはできないのだろうと思う。穴を埋めることは不可能なのだと思う。

この作品のテーマは、「主人公が犯した殺人」です。死を覚悟するくらいの重い病気にかかり、世界を憎悪。しかし奇跡的に生還した主人公は、自殺をするつもりが親友を殺してしまう。深い苦しみ、孤独を味わい悪魔になろうと決心。自分が人殺しであることをかかえながら、色あせた世界に希望を持たず、興味を持たずに無意味に生きる。最終的に主人公は数年後に自首します。安心しました。このまま話が終っていたら、いくら物語とはいえ、私はいらだっていたと思います。私が選んだ一行は、当たり前のことじゃないか、と思う人もいるでしょう。でもこの話を読んだ私は主人公と同じ気持ちになっていたので心にぐさりと刺さったのです。重かったのですが、とても深い話でいい本に出会えました。

いい?自信を持つのよ。自分の生き方に。あんたの人生なのよ。先生や、お父さんやお母さんが何と言っても、迷ってはだめ。しくじることを怖がらないで。あんたが自信を持っていれば誰が笑ったて、構やしないわ。

この一行からは、ゆうきをもらえる感じがして、自分もがんばろうという気持ちがもらえました。それに、何回読んでもあきないし、何度も何度も泣かされたお話でした。特に、先生やお父さんお母さんが何と言っても迷ってはだめ、という所にはゆうきをもらいました。なぜかというと、私ははずかしがりや、あまり自信を持って何かをしたり、言ったりできないからです。それで、この言葉を読んだときに、「あのときは、こうすれば良ったな」とか、「ああ言えば良ったな」と思いました。私は、これから自信を持っていろんな事をがんばりたいです。

やってみなきゃわからないでしょ?

なんでもすぐにはあきらめず、やってみなくてはわからない、ということに、この一行を読んであらためて気づきました。そして、生きているのだからなんでもためしてみなくてはいけないということも、この一行から学びました。だから、私はこの一行を選びました。

この世に生きとし生けるもの、それはいかに有害なものであっても、なんらか特別の効験を、この世に与えないものはない。

『ロミオとジュリエット』

シェイクスピア/著、中野好夫/訳

88ページ

この世の中には、どんなに悪い物であっても、何一つとして不必要な物はない、という文に感動したので選びました。私は、バレエをやっています。その中で、「ロミオとジュリエット」の作品を何回か見たことがあります。この物語は、とても純すいな恋の物語です。バレエでのバルコニーのシーンが、私は一番好きです。こんなにもせい実な恋は無いと思います。おたがいがひかれ合うということは、すばらしいことだと私は思っています。

富士山に登るべきか登らないべきか、私はずいぶん長い間悩んでいた。静岡県に生まれ、毎日富士山を見て育ってきたのに、まだ一度も登ったことはなかった。

わたしも、東京に生まれたのに東京タワーに登った事が一度もありません。なぜかと言うと、わたしは高い所が苦手です。だから、登った事がありません。でも、一度ぐらい東京タワーに登って景色を見てみたいと思います。わたしの家のベランダからは、東京タワーが良く見えます。夜になると、イルミネーションがあり赤色や青色になりすごくきれいです。また、出かけた時などに車の窓から東京タワーが大きく見えます。一度も富士山に登った事が無かったんだから、と中であきらめないで登れば良かったと思います。結局さくらももこさんはあまり山に登る事は好きじゃないのかと思いました。

期待をたっぷり含んだ声だった。

「この時、真緒は浩介にどのように答えてほしかったのだろう。」と、一しゅん考えた。この本を読み始めてから、そんなふうに考えることが多かった。そんなことを考えているうちに、ふと我に返った。「じゃあ、自分はどんな時に、期待たっぷりの質問をするだろうか」。ごきげんの時、うれしい時、分が良い時、色々ある中で一つだけ深く考えたことがある。自分が良くても相手はどうなのか、自分が期待していた通りにきちんと答えてくれるか。私が相手に「今日のおやつはアイスとせんべい、どっちがいい?」と聞いたとする。私が『手作りの』という言葉をどちらかにつけ加えた場合、相手が親しい人だと、つけ加えた方にすると思う。しかし、今はつけ加えずに言ってみる。そうなると相手が答えるのは二種類ある。本当は「アイス」と答えてほしいのに「せんべい」と答えられたら不きげんになってしまうだろう。読み進めるとその後に答えとなる文章があり読んでみると納得した。本はおもしろいものだと思った。

考えているのを邪魔されるのは、首を絞められるより苦しいんだ。数字と愛を交わしているところにずかずか踏み込んでくるなんて、トイレを覗くより失礼じゃないか、君。

この言葉は、博士が考えている所を家政婦さんに邪魔されたときにどなった言葉である。このような言葉を発したときの博士の気持ちはよくわかる。私が問題の解き方を考えている時や複雑な計算をしている時などにかぎって、家族が話しかけてきたり、ちょうせんしていることに失敗した弟があばれ出したりする。そのようなとき、私は大声で「うるさい」とどなり、けんかをしてしまう。なので、博士の言葉にとても感動した。早速、この一行を読んだ次の日、弟が話しかけてきたので、博士の言葉を使った。

この屍、どうにも手に負えなんだのう。

戦争というものは、とてもひさんなものである。私は、まだそのころには生きていなかったが、多くのかく兵器をつかって多くの人をぎせいにするものであることは知っている。私は、毎月ある雑誌をかってよんでいる。たまたま9月は戦争のお話だったのでじっくりよんだ。この雑誌で、あらためて、戦争のおそろしさ、平和の大切さを学んだ。そして、私たちが生きている間にどうか、戦争はおこらないでほしいといのっている。この文からは、手に負えないほど沢山の死者がいることがわかる。このまま平和な世がつづいてほしい。

私が、私一人が戻って、でも、それで終わりじゃないんだからね。

私がこの一行を選んだ理由は、友だちを思いやる気持ちがあらわれてると思ったからです。この小説は“ホラーサスペンス”です。誰かを勧誘すればネットも携帯も無料というプロバイダに登録した高校生たちを奇怪な事件が次々に襲います。自殺、失踪、連続殺人……。でも、それは仮想の世界に行っただけだったのです。恐怖に打ち勝った者だけが現実の世界へもどってこれます。この一行は現実の世界へもどってきた尚美が可奈子に言った言葉です。自分だけが助かって満足するのではなく、まだ助かっていない友だちを助けるために戦おうとする、その姿勢に感動しました。

死ぬ人は諦めて死ぬのだ。俺たちは決して諦めない。だから、絶対に死なない

「死ぬ人は諦めて死ぬのだ」という言葉に疑問を感じました。理由は、周りの親せきのおそうしきで顔を見るととてもあきらめた人のような顔ではありません。なかにはこどく死という諦めて亡くなる人もいます。ですが、この「凍」という本は登山家の実話ですが登山家は山をおりたりのぼったりしている時に諦らめるのでしょうか。けど、最後の「俺たちは諦らめない。だから、絶対に死なない」、この言葉は、人を諦めさせない言葉でした。絶対というのは人にとっての希望の言葉でもあるから、この疑問といい言葉が合わさっていて、人への説得力がとてもあると思いました。

吉本くんがビリビリに破いちゃったのを、みんなで直しました。

僕がなぜこの一行を選んだかというと、自分のクラスでこのようなことが起きたら、どうなるかということを、考えさせられたからです。僕のクラスでもし起きたらみんなで助けあって、やられた人のことを心配し、破いた人のことを指摘すると思います。もしできなくても、できるようにしていきたいと思います。

だから、夜明けに、小さな変わった声で起こされたときには、どんなに驚いたことだろう、聞こえてきたのは、こんな声……「おねがい……ヒツジの絵を描いて!」

『星の王子さま』

サン=テグジュペリ/著、河野万里子/訳

11ページ

サハラ砂漠に飛行機が不時着するまでひとりぼっちだった「ぼく」。ぼくだったら、ひとりぼっちはさみしくて、話す人がいないなんて考えられません。だから、「ぼく」が王子さまの声を開いたことにぼくもびっくりしましたが、うれしくもありました。

そのうち追いつけばええねん。人生は最後に笑たもんの勝ちや。

この一行は、ポジティブで、うさぎとかめです。 人生は、いろいろありますが、ぼくはまだ十一才です。まだ追いついていないこともたくさんあります。この言葉は、病で発達が遅れた主人公・直之に軽く言った言葉ですが、今のような状態のぼくも、とてもみりょくを感じました。こんなことを軽く言えるのも、すごくかっこよく思えました。この言葉をきっかけに、これからもがんばっていこうと思いました。

こう判断する以外、なさそうだぞ。この星の連中は神経がねじれているにちがいない。そのために感情と表現とが、逆になっているのだろう。

『ようこそ地球さん』の「友好使節」を読んで、確かにぼくたちは、知らない物には、好意ではなく敵意と軽べつだけを持っているな、と思いました。でも、その考えは、まちがっていると思います。知らない相手を優しくむかえ入れて、皆平等に接すると、交友関係が生まれ仲良くなれると思います。実際、人間は、「感情と表現とが、逆になっている」わけではありません。だから、作者はこの「友好使節」を通して、思っていることと反対のことは言わず、心の内をはっきりと相手に伝えましょう、と伝えたかったのかな、と思いました。僕も、知らない物にも好意を持ち、心の内を相手にはっきりと伝えなければと、改めて思いました。

老いも若きも、男も女も、あらゆる階級、あらゆる職業の人々が、「一度は富士登山を」と志す

富士山は二〇一三年六月二十二日に世界文化遺産に登録されました。以前、世界自然遺産を目指していたそうですが、ゴミが多い等の問題があり断念したそうです。今回世界文化遺産に登録されて僕は心配しています。なぜなら、僕が選んだ一行のように、老いも若きも、男も女も、あらゆる階級、あらゆる職業、そしてこれからはあらゆる国の人々が「一度は富士登山を」と志すと思われるからです。たくさんの人々が登ることによりさらにゴミが増え、富士山の自然環境が破壊されてしまうことを心配しています。世界遺産は六年ごとに保全状況の審査があり、保全状況が良くないと世界遺産の登録が取り消しになることがあるからです。これから富士山を志す全ての人々がきちんとマナーを守って富士山を大切にしていくことが課題だと思います。僕も富士山にいつか登って、富士山の魅力をこの目で見てみたいです。その時はきちんとマナーを守って登ります。

ぼくが、この一行を選んだ理由は、昔ペットが死んだ時、幼稚園の友達が「盛り上がれば元気になる」と言うので盛り上がっても、よけいに悲しくなった経験があるからです。そして悲しいままぐんぐんぐんぐん落ちこんで一週間後に少し元気になれたからです。他にも大事にしていた本をぬらされてぐんぐんしずんでいったらすぐ楽になったからです。

それでわれらは、この島で、りっぱに、ほがらかに、ただの一日もいやな思いをしないで、おたがいの生活が、少しでもよくなるように、心がけてくらすことができたのだ。

『無人島に生きる十六人』

須川邦彦/著

243ページ

なぜこの一行を選んだかというと「おたがいの生活が進歩し」という所は、いつも人にたよったりふつうの生活をしていたけれど、無人島ではたよれる人がいないので、みんなで助け合いながら生きていかないといけません。無人島で協力することを教わったんだなと思う一行だったからです。

途中止めしたら、絶対正解にはたどり着けないんだよ。

ぼくが、なぜこの言葉にしたかというと、その言葉通りに途中で止めてしまえば、絶体に正解にはたどりつかないからです。ぼくは、バスケットボールの3ポイントからのオーバーシュートの練習をしていて、30本の内1本しか決まらなかったことがあります。途中であきらめようとしたけれども、今やめたら次は入るかもしれない、それなのにやめてしまってはなにも得られないと思い、練習をつづけたけいけんがあるからです。

手がなくても、目がなくても、口がきけなくても、人間として大事な心さえ立派であれば、それが立派な人間といえるのじゃないですか。

この言葉は、重い病気を持つふじ子に対しての信夫の言葉だ。信夫は、ふじ子のいる札幌から旭川へ行くが、何とかふじ子の病気をなおして、他のひととは結婚せずにふじ子をお嫁さんにしようとした。だが、ふじ子が、「でも。」と言いながら、病気はなおらないと自信を無くしていたので、信夫が少し強く言ってあげたのがこの言葉で、とても心に残った。ぼくが、これから大人になって困難にぶち当たった時には、信夫のようにしっかりした心や信念を持って進んで行きたいと思う。

生きている人は、みんな、自分の力で歩いていかないといけない―。

この一行は、交通事故で亡くなった永瀬文ちゃんが教えてくれたことです。自分の力で一歩ふみ出すことのできたユウキをみて、自分の力で一歩ふみ出すことはとても大事なことなんだと思ったから、この一行を選びました。ぼくもユウキみたいに自分の力で歩いていきたいと思いました。そして、この一行は何回も出てきて、このお話の大事なキーワードにもなっているので選びました。

一人一人の力は弱い。ちえもたりない。しかし一人一人のま心としんけんな努力とを16集めた一かたまりはほんとに強い、はかり知れない底力のあるものだった。

『無人島に生きる十六人』

須川邦彦/著

242-243ページ

ぼくがこの一行を選んだ理由は二つある。一つ目は、この一六人の主人公たちの大半は練習生なのに、この一六人の力を一つにした力は無人島で一年も生きていけるほど強い。そういう事をこの一行は伝えたかったのだと思ったからだ。そしてもう一つの理由は、流れ着いた島は木もない何もない島だったということ。もう一つの島を見つけ、たき木などは見つかったものの最初の二、三日はとてもつらかったと思う。飲み物も塩からい水、食べ物は一かんを一六人で分けるというあり様だ。ぼくは、この本を読んで自給自足の本当の意味が分かりました。

運命なんて、結局のところ、何を選択するかってことだと思う。

この物語には、これから実際に起こる悲しい事件を夢で見てしまうという少女が登場する。少女の夢は必ず現実となってしまうのだが、一人の青年探偵が現れたことで、少しずつ現実が変化していく。運命だとあきらめていたことを、変えられる人がいたのだ。運命とは何だろう。「人は、運命を避けようとしてとった道で、しばしば運命に出会う。」というフランスの詩人の言葉が最後にのっていた。この言葉の意味は、運命は変えられない、ということらしい。運命を変えようと思って別の道を選んだとしても、それも運命なのだ、と。けれど、この言葉の奥には逆の意味があると思う。僕が選んだ一行のように、運命は何を選ぶかで決まるのではないだろうか。自分が何を選んで、どの道へ進むのかで、これからの運命は変わるのだと思う。つまり、運命を作るのは自分なのだ。主人公の青年のように、僕も正しい精神と強い意志で、自分の運命を決めていきたい。

俺たちを遭難させたのは、日本のサラリーマン社会だよ。

日本は、お金儲けやサラリーマン(労働者)の育成ばかり気にしているが、社長・会長の大半はサラリーマンの気持ちを考えたことがあるのかなと、この一行を読んで思いました。なぜなら、自己中心的ではいけないし、サラリーマンの一人一人が日本の社会を支えていると思うからです。

人生は最後に笑たもんの勝ちや。

ぼくが、この一行を選んだ理由は、最後の最後に、「楽しい」とか、「うれしい」というように思えるような事をしたいと思ったからです。今は、「苦しい」とか、「いやだ」など、つらい事があり、これからもふえていくかもしれません。それでも、最後の最後には笑えるようになりたい、笑えるように努力したいと思います。

知識はこの世で何より価値あるものだ。知識があってこそ偉人も善人も生まれる。

『トム・ソーヤーの冒険』

マーク・トウェイン/著、柴田元幸/訳

59-60ページ

僕はクイズ番組が大好きです。なぜクイズ番組が好きかと言うと、これから役立つ知識などをたくさん身に付けられるからです。知識があると人のためになることができると思います。知識をたくさんもっていると価値があり、知識をもっているからこそ、偉人や善人がいるのだと思います。僕がこの一行を選んだ理由は、僕の考えと本の作者(マーク・トウェイン)と似たような考えをもっていると思ったからです。

かれの目には細い月の光をうけて、星のようにちらっとつゆが光った。

『無人島に生きる十六人』

須川邦彦/著

126ページ

この話は、十六人が無人島で生活するという話で、どきどきわくわく読みました。なぜこの一行が心に残ったかというと、星のように、つゆが光ったという涙の表現の仕方がきれいだったからです。また、具合が悪いときでも気を配ってみんなを助けようとする姿に感動したからです。

あんたらのためにじゃなく、ディズニーランドのためにやることだ。

『ミッキーマウスの憂鬱』

松岡圭祐/著

229ページ

ぼくがこの一行を選んだ理由は、現代の日本社会の労働者に失われつつある思いを取り戻させてくれる一行だと感じたからです。失われつつある事とは、労働者のほとんどが上司の顔色をうかがい、目先の評価ばかりを気にしていて、企業が本来目的としている理念を忘れかけていることです。これからの日本企業が成長していく上で、その中で働く者の一人一人が強く意識をしていかなければならないという事を教えてくれていると僕は思い、この一行を選びました。

いい?自信を持つのよ。自分の生き方に先生やお父さんやお母さんがなにを言っても、迷ってはだめ。信じることをこわがらないで。あんたが自信を持ってさえいれば、誰が笑ったって構いやしないわ。分かった?

この本を読んでいて一番心に残ったのがこの文でした。中でも「迷ったらだめ」というのがよかったです。迷っていたら次に進めないということを伝えたいと感じたので、この一行が私の一行になりました。

こんどこそは、どうやら解決の鍵を握ったつもりだよ。

『シャーロック・ホームズの冒険』

コナン・ドイル/著、延原謙/訳

262ページ

ホームズも頭をひねったこの事件、解決までの展開がおもしろい。失踪したという男、ネヴィル・セントクレアは乞食に変装していた。ある日、妻に見られてはいけないアヘン窟にいる所を妻に見つかった。変装はばれなかったが、本人、ネヴィル・セントクレア氏を殺したと言われて警察につれていかれた。そこでホームズが推理をしていくと、セントクレアは変装中の乞食だということなどのなぞがわかり、事件は解決へ向かっていくという話だ。私は、どんな推理小説を読んでも、なかなか「解決への鍵」を握ることができない。だから、いつも解決への鍵を握ることができるホームズは、すごいと思う。

君が好きや。今すぐ一生とか約束できんけど、今は君が好きで君と付き合いたい。

私がこの一行を選んだ理由は、単純にこの言葉がわけもなく心に刺さり、「すごくかっこいい」と思ったからです。主人公が色んな思いをこめて言った言葉だからこそ、すごく心に刺さったのかもしれないと思います。

あんたは、もっともっと底の方で光っているものをもっている……。

このお話の主な登場人物は、自分に自信がない妹の実加と、非の打ち所がない優等生の姉・千津子です。交通事故で千津子が死んでしまいましたが、その数日後から実加は変わり、心が成長してゆきます。それは、死んだはずの千津子の声が頭の中に聞こえるようになったからでした。「あんたは、もっともっと底の方で光っているものを持っている……」。これは、千津子が死ぬ直前に実加に言った言葉です。私は千津子のこの言葉を実加は信じていたから、千津子の声が聞こえるようになったのだと思います。「今は見えていなくても、まだすごい可能性がある」。千津子の声が聞こえなくなる前に、実加は「お姉ちゃんなんかどこかへ行っちゃえ」と言い、それが実加の自立の言葉になりました。これからもずっと未来へと進もうとする勇気がわいて来ました。

死んだ人間と生きた人間を会わせる窓口、使者(つなぐ)。

わたしは、この部分を読んですこしこわくなりました。なぜなら、死んだ人間とは一生あえないはずだからです。使者(つなぐ)という人は、何者だと思いました。

死んでもいい、と思えるほどの何かを、いつかぼくはできるのだろうか。たとえやりとげることはできなくても、そんな何かを見つけたいと思った。そうでなくちゃ、なんのために生きてるんだ。

私たちの命は、この世に二つとない大切なものだ。しかし、生き物は案外簡単に死んでしまうのかもしれない。だれだっていつかは死んでしまう時がくる。そして、人間は死ぬことを知り、おそれている。それは、自分が何もやりとげられないことをおそれるのだ。だからこそ、死んでもいい、と思えるほどの人生の目標を見つけよう。その目標に向かって全力で取り組めばその一生はくいのないものになるにちがいない。そんなことを、この文は教えてくれる。

私がいなくなったら、きっとお母さんしばらく立ち直れないわ。あんたがしっかりしなきゃだめ、分かった?――あんたはね私なんかよりずっとずっと才能のある子なのよ、本当よ。私はただ器用で目立つだけ、底の方で光っている物をもっている。

私がなぜこの「一行」にしたかというと、美加と千津子の生きている内の最後の会話だからです。この時私が、美加のたちばだったら、とまどって、何もできないと思いました。でも美加は、ちゃんと「お母さん呼んでくる。」とてきぱきしていてすごいと思いました。私も、お姉ちゃんはいないけど、美加みたいにがんばります。でも私にはいとこがいます。いとこのお姉ちゃんとしてがんばります。そして、ぜったいにいとこたちをまもりたいとおもいました。

あれこれ考える前にはじめることである。

この一行を選んだ理由は、何かをやってみたいなと思うときに、あれこれ考えてしまう私の背中を後押ししてくれる一行だと思ったからです。例えば、みんながドッチボールをしている時にやってみたいなと思ったとすると、自分よりもみんながとても上手に思えて、やはり見ているだけの方が良いかなと、なかなか実行に移せないような場合があります。そんな時に、この一行を思い出し、ともかくまずやってみたら案外楽しくて熱中してしまうかもしれないと感じさせてくれる一行だと思いました。この一行にうまく乗せられるのも面白そうだとも思いました。

「今じゃなければできない演奏がある」と言った言葉の意味を、克久は温かな生き物の身体を抱き締めるように解った。

ブラスバンドに入る前まで心の中を黒くぬりつぶし、引っこみ思案だった少年・克久が、ブラスバンドに入って音楽と向きあっていくところにとても胸がジーンとした。それに仲間と一緒に気持ちの面など成長していく姿に、私の所属している金管バンドも克久の中学校のように成長していきたいと思った。中学生になったらこの本のように部活にぼっとうして楽しみ、迷ったりせずにつき進んでいきたい。私は伸び盛りの輝きを教えてくれたこの小説が大好きだ。

なぜ星が美しいか、誰も説明のできないのと同じように、数字の美を表現するのも困難だがね。

私が、この本の数ある一文の中でこの一行を選んだのは、記憶が八十分しかない博士が数字を深く愛していることがよく分かるからです。この本は、若いころに事故にあい記憶が一九七五年で停止している博士と家政婦、そしてその息子「√」の生活を描く悲しく暖かい物語。家政婦さんと博士の初めてのつながりは、誕生日と博士のうで時計だった。220と284。博士の書く数字は丸みがありうつむき加減の易しい字だった。この本を読んでいると、√、博士、家政婦さんの三人が今もどこかでひっそりと、しかし熱く数学を語り合っている気がします。数学の美を理解した博士が言うこの一行には、とても強く心を動かされ感動し、まるで自分に話しかけているかのようでした。

あのころの悦子は、人間の脱け殻だったのだ。

わたしがなぜこの一行をえらんだのかというと、「脱け殻」という言葉がむねにつきささったからです。脱け殻ということは、中になにも入っていないということだから、悦子は夫を亡くして、めのまえがまっしろになって、未来はないみたいな感じになったのでしょう。「脱け殻」という言葉で、さびしいし、ぜつぼうてきになった悦子のイメージがでてきて、いんしょうにのこったから、この一行にしました。

何十年もがんばるぞ。

『無人島に生きる十六人』

須川邦彦/著

200ページ

私が、この一行を選んだ理由は、二つあります。一つ目は、十六人が同じ事を思っていてみんなで協力していることです。協力はだいじだと思いました。二つ目は、ざい料も少ない無人島で生きているからです。本にはなんども、「がんばろう。」という言葉がでていてすごいと思いました。私も十六人のように、色々な人と協力し、がんばるという気持ちでなんでもとりくみたいです。

「この世」にいる時と、「あの世」にいる時、一度ずつなんですね。

「ツナグ」とは、死者と生きている人の再会をかなえてくれる人のことです。私は、この一行を読んだ時、いるはずのない「ツナグ」が本当にいるのかもしれないと思いました。なぜなら、「ツナグ」は、いろいろな人に会わせてくれるのではなく、「一度だけ」と言ったからです。私は、亡なったおじいちゃんに会いたいと思うけど、おじいちゃんは私よりもおばあちゃんに会いたいと思っているかもしれません。だから本当に「ツナグ」がいても、「おじいちゃんに会わせて。」と、お願いをしないで、終ってしまうのだと思いました。

「ワタシの一行」コンクールについて

米子市立湊山中学校では、2013年夏期休業中の3年生の作文課題として「ワタシの一行大賞」に参加。最終学年の夏休みにも拘らず、95名もの生徒が作品を応募してくれました。
3年国語科担当の田代慎一郎先生より、「ワタシの一行」についてのご感想が寄せられています。

新潮社 「ワタシの一行」コンクールについて
米子市立湊山中学校 国語科 田代慎一郎

読書に親しみ読みを深めるための学習活動としては、これまで、アニマシオン(*読書を深めるゲーム活動)を取り入れたポップカードを作り、地域の書店に掲示してもらう活動などを行っていました。  作文については、鳥取県主催の「少年の主張」などを中心に課題を出していましたが、いわゆる「読書感想文」にはそれほど取り組んでいませんでした。  中学生と直に接する国語教員の実感として、読書感想文は生徒に心理的な負担が大きいと感じています。読書に親しみ、読書からより深く学ぶための課題が、逆に「読書嫌い」「作文嫌い」を増やす可能性があるのではないかとも思います。  2014年度は、原稿用紙1枚(400字相当)という短さや、「一行抜き出せばいい」という気安さに惹かれ、「読書嫌いを作らないかもしれない」と考えて「ワタシの一行大賞」に参加をしました。

生徒作品を帯にして図書館に展示

実際に生徒の取り組む様子や作品を見て、「ワタシの一行」を創作することは、一般的な「読書感想文」と大きく質が異なると感じました。それは、「読書感想文」を書く行為においてはあくまで対象の「本」の内容が主体であるのに対し、「ワタシの一行」に取り組む行為では「ワタシ」と向き合うことが主体になる、ということです。 「ワタシの一行」では、これまでの読書感想文とは根本的に異なる取り組みをすることができます。あくまで、主体は本ではなく「ワタシ」です。本全体の文脈がおぼろげでもかまわない。極端に言えば、主人公の名前やあらすじが抜け落ちていてもかまわない。ただ一節だけ、「ワタシ」の心に生きている言葉があればいいのです。逆に言えば、400字という短さは、「一行」と「ワタシ」との関係性だけに焦点を当てることとなります。その結果、生徒は本を紹介する書評としての読書感想文ではなく、読書を通して自分を見つめ直す文章を書くことが出来ました。

これは、参考例としてあげられていた角田光代さんの作例が素晴らしかったことも大きな要因でしょう。「人は本を必要とする」の引用以後、引用元書籍『さがしもの』の内容に関しては一切触れられずに、その一文が呼び起こした筆者の記憶が語られます。自分の心と結びつく一文を、角田さんは「小説の心臓」と表現しています。そして、心臓は読み手によりいくつもある、とも述べた後にこう挑発します。「あなたの心臓はどこですか」と。

生徒は、その挑発に応えるように本の中の心臓を探す行為を通して、自分の心臓と向き合いました。

何となく読んだ一冊の中の、何となく目にとまった一行を選んでも「ワタシの一行」コンクールの規定は満たすことができます。しかし、「何となく」の出会いには満足することができない生徒も多かったようで、学校図書館だけでなく、郊外の書店で、市立図書館で、「しっくりくる一行が見つからないから」と本を求めて探す生徒の姿を見かけました。  また、逆に「この本がいい」と決めた理想の本と出会えているにもかかわらず、最も心に響く一行を選ぶことができず何度も読み返した、という生徒もいました。  文字数を原稿用紙1枚に限定する、引用を主体とする、という一風変わった読書感想文でコンクールを行うことは、新潮社にとっても野心的な試みだったのではないでしょうか。

その意欲的な挑戦は、確かに生徒に届いていたようです。

また、このコンクールの参加にあたっては、本校の学校図書館とも連携を行い、「該当書籍の展示」や、「生徒作品をもとに作成した帯の掲示」を行いました。  本の帯に記された一行の引用文をみると、本の内容だけでなく、その引用を行った人物の内面に向き合うことができるように感じます。  自分がもっともたくさんのものを受け取った一行を示す。自分と同じような体験をし、同じように悩み、喜んだ人にはきっとその一行の意味が通じるでしょう。「あなたも、ここを選んだんだ!」という思いを共有できるかもしれない。  図書館での展示から、読書についてそんな新しい広がりがあるかもしれないと感じました。  いつか、生徒たちの選んだ一行と、そこに込められた思いが全国の方に届き、新たな世界を広げていく手助けができたらと願っています。

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以上のように、田代先生は大いに手応えを感じて下さったようです。自分だけの「一行」を選ぶという行為によって、生徒たちに起った変化、そして図書館や書店など「本のある場所」での新たな出会いなど、湊山中学校での試みは「ワタシの一行」の可能性を教えてくれます。

新しい形の読書エッセイコンクール

好きな本から、気になった一行を選び、その一行に関する「想い」や「エピソード」を記述する、新しい形の読書エッセイコンクールが誕生。第一回の2013年度は、全国200校以上から、21288通もの応募がありました!

「こんなステキな一行があるんだ!」「あの人は、こんな一行を選ぶんだ!」。多くの著名人が一行推薦者として参加する「ワタシの一行」は、本を敬遠しがちな子どもたちが“本に出会う”チャンスを広げ、読書に対するハードルをグンと下げます。

たとえば「朝の読書」の記録として、あるいは「読書ノート」作りに…読書習慣を身につける指導に「ワタシの一行」はうってつけです。日付とともに書き留められた一行を読めば、本の内容ばかりか、その時の感動や心情が、心の日記のように鮮やかに蘇ります。

規定の文字数の大半が“あらすじの要約”になりがちな読書感想文。でも、「ワタシの一行」感想文は違います。同じ本を読んでも、どの一行を選ぶかは人それぞれ。その一行を選んだ理由も十人十色です。判で押したような要約形感想文から、個性きらめく感想文へ、子どもたちの可能性が広がります。

同じ教材や作品から、児童・生徒それぞれが選んだ一行を発表しあい、語り合う授業を通じて、感じ方の多様性を知り、想像力も養えます。また、その一行を前後の文脈の中で捉え直すことで、読解力を磨く機会にもなります。

たとえば蔵書を課題図書にした「一行」校内コンクールなど、学校図書館の活性化に一行を活用してみませんか?また、文学から歴史・科学・実用書まで世界のあらゆる事象を扱うのが「本」の世界。灘校の橋本武教諭が『銀の匙』1冊から教科を超えた授業を行ったように、総合的学習の場でも、様々な本からの「一行」は格好の教材となるはずです。

東京・銀座のど真ん中に建つ中央区立泰明小学校

東京・銀座のど真ん中に建つ中央区立泰明小学校(和田利次校長)。「つたの葉」に彩られた校舎と「フランス門」と呼ばれる瀟洒なデザインの通用門でも知られる同小学校では、2013年の夏休みの課題として、「ワタシの一行」感想文に取り組みました。児童の読解力なども考慮して、5年生(60名)、6年生(49名)が参加。児童は、主に「新潮文庫の100冊」から各自の課題図書を選定して、「一行」を選び「コメント」を書きました。小学生には難解な作品を選択した児童もいて“苦戦”の様子が窺えるコメントもありましたが、“小学生で、よくぞこれを選んだ”と言いたくなるような、素晴らしい一行が多数ありました。

※泰明小学校「ワタシの一行ノート」(提出用紙)

6年1組の担任・中山彩美先生は、今回の取組みについて、こう話してくださいました。「児童が書いた『ワタシの一行』とコメントを読んで、まず驚いたのは、どの児童の感想からも本に向き合う姿勢がしっかりと伝わってきたことでした。感想を書かせると、あらすじを書き、大まかな感想でまとめてしまうことも多いのですが、今回は一人一人の思考力の高まりを感じることができました。読書好きの児童でも、どちらかというと“感覚的に”読書を楽しむ児童は少なくありません。その点、『ワタシの一行』では言葉に焦点を当てて読むことで、子どもたちは“なぜ自分の心にその言葉が響いたのか”をじっくり考えることができたようです。考えるためには、言葉をなぞるだけでなく、その言葉の裏にあるメッセージや著者が描いている世界観を読み深めることが必要です。その過程で自分の生活を振り返り、自分が大切にしている価値や自分の目指したい生き方を具体的にイメージできた児童もいました。このように、感覚的に捉えたものを“なぜそう感じたのか”筋道を立てて相手に説明することは、国語の学習にとどまらず、“学び方”を学ぶ上で大切な姿勢だと思います。今回は、それを身につける良い機会になったと感じています」。

さらに中山先生は、感想文だけでなく、教室での国語科の指導に「ワタシの一行」を活用できるのでは、と言います。「物語文を読み取る学習に際しては、一時間ごとに一番心にのこった『ワタシの一行』を選び、学習の積み重ねを児童自身が実感できるような授業を実践してみたいですね。その一行へのこだわりを大切にしながら登場人物に自分の体験や想いを重ねたり、叙述と自分の想いを行き来したりしながら読み深めるための、良い支援になるのではないかと思います。また、一行だけに焦点を当てるのではなく、その前後の流れとのつながりを把握するためにも、『ワタシの一行』は児童にとっていい材料になると感じています」。

和田校長先生からも、こんなメッセージをいただきました。「『ワタシの一行』は、子どもたちと本との出会いが、人生の確かなトピックとなるほどの教育的価値のある取り組みであると考えます。あるいは、人生観をも変えてしまいそうな珠玉の言葉との巡り会いでもあります。本とのお付き合いは一生ものであります。人生を豊かにするエッセンスです。今回の取り組みを通して、読書が、子どもたちが成長してゆく中で、友として、師として、そして、自身の心の鑑として連れ添う相手になってくれたらと願っています」。

東京都新宿区

「わたしの漱石、わたしの一行」コンクールが始動しました!

東京都新宿区では、夏目漱石の生誕150周年にあたる平成29(2017)年2月の開館を目指して、「漱石山房」記念館(仮称)の整備を進めていますが、その関連事業として、読書感想文コンクール「わたしの漱石、わたしの一行」が開催されることになりました。漱石作品を読み、自分の心に深く残った「一行」を選び、なぜその一行を選んだのかを800~1200文字で表現する、という内容。中学生・高校生が対象です。 「ワタシの一行」に着想を得たこのコンクール、もちろん、新潮社も協賛企業として応援していますが、ほかにも朝日新聞や紀伊國屋書店などの企業や、千代田区、文京区、松山市ほか全国の漱石ゆかりの自治体が後援しています。「ワタシの一行大賞」とともに、夏休みの自由課題に最適かもしれませんね。

小学生を対象にした絵画コンクール「猫になって描いてみよう~わがはいはネコである~」も同時に開催されます。詳しくは、こちらで。

2014.6